永原秀一

ながはら ひでいち
永原 秀一
プロフィール
誕生日 1940年8月7日
出身地 日本の旗 日本 東京都
死没日 2001年11月14日
主な作品
テレビドラマ大都会 闘いの日々
西部警察
映画拳銃は俺のパスポート
最も危険な遊戯
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永原 秀一ながはら ひでいち1940年昭和15年〉[1]8月7日 - 2001年平成13年〉11月14日[2])は東京都出身の脚本家。株式会社ラグス元代表取締役。日本大学芸術学部卒。

略歴[編集]

大学卒業後、東宝文芸部研究生、シナリオ作家協会職員を経て、1967年日活映画『拳銃は俺のパスポート』でデビュー[2][1]。以降、『野獣を消せ』(1969年)『斬り込み』(1970年)『女番長野良猫ロック』(1970年)などのハードボイルド・アクション作品を矢継ぎ早に手掛け、日活ニューアクション路線の屋台骨を脚本面から支えた。一方で日活作品のみならず、初のオリジナル脚本作品である『狙撃』(1968年)をはじめ、『弾痕』(1969年)『ヘアピン・サーカス』(1972年)『反逆の報酬』(1973年)などの東宝作品においてもその手腕を発揮し、“東宝ニューアクション”という新路線の開拓にも功績を残している[2]

1970年代半ば以降は活躍の場の中心をテレビドラマの世界に移し、特に『大都会』以降の石原プロモーション製作による刑事アクション作品ではシリーズ構成やライター陣の取りまとめなどを任され、『西部警察』の企画グループとして設立されたブローバック・プロの社長も務めた。映画作品においても『セックス・ライダー 傷だらけの欲情』(1973年)、『襲う!!』(1978年)、『肉の標的 奪う!』(1979年)などの日活ロマンポルノ作品、『最も危険な遊戯』(1978年)『蘇える金狼』(1979年)といった一連の松田優作主演作品の他、『惑星大戦争』(1977年)『ゴジラ』(1984年)などのSF特撮作品、『ハイティーン・ブギ』(1982年)などのアイドル路線も手掛けた。

晩年は時代劇やVシネマなどをコンスタントに手掛けていたが、2001年11月14日、心不全のため死去[2]。61歳没[3]

エピソード[編集]

  • 生前は熱烈な草野球愛好家としても知られ、脚本家の柏原寛司が主宰する草野球チーム「JAWS」にもメンバーとして参加していた(他メンバーは、金子成人峯尾基三首藤剛志粟津號など)。後に永原はJAWSから独立し、新チーム「ラグス」を創設。これらの草野球チームは脚本家志望の若手や後輩ライターへの門戸としても広く活用されていたが、その後ラグスは脚本家事務所として株式会社化。映画監督の前田陽一が共同代表となり、永原の門下であった平野靖士を中心に、佐治乾山本茂冨岡淳広らが所属した。
  • 顔が永山則夫に酷似しているという理由で警官から職務質問を受けた際、執筆の資料としてモデルガンを所持していたことから、大騒ぎに発展したことがあるという。
  • 東宝プロデューサーの田中文雄は、永原について「切れのいい脚本家」と評しており、ベテランのころに手掛けた『惑星大戦争』では細かなディスカッションをせずとも簡単なやり取りだけで修正が行われるなど、阿吽の呼吸であったという[2]
  • 映画『さよならジュピター』(1984年)では、脚本を執筆していたが、原作者の小松左京には採用されなかった[2]。東宝プロデューサーの田中友幸は、永原の脚本であればもう少し成功していたかもしれないと述べている[2]。田中はこれ以外に3本の映画で永原を起用している。

主な作品[編集]

テレビドラマ[編集]

テレビアニメ[編集]

ドキュメンタリー番組[編集]

劇場映画[編集]

ビデオ映画[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 1984コンプリーション 2019, p. 122, 「企画書&シナリオ」
  2. ^ a b c d e f g 平成ゴジラ大全 2003, pp. 44–45, 「序之弐 復活『ゴジラ』」
  3. ^ 読売新聞2001年11月16日夕刊19面

参考文献[編集]

  • 『The Making of Godzilla 1985 東宝「ゴジラ」特撮全記録』小学館、1985年1月15日、95頁。ISBN 4-091031-51-X 
  • 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1 
  • 『ゴジラ1984コンプリーション』ホビージャパン、2019年1月31日。ISBN 978-4-7986-1853-1 

外部リンク[編集]