水野良春

 
水野良春
時代 南北朝時代
生誕 不詳
死没 応安7年6月16日1374年
別名 通称:又太郎、号:無二
墓所 退養寺愛知県尾張旭市新居町)
主君 後醍醐天皇
氏族 水野氏
兼春
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水野 良春(みずの よしはる)は、南北朝時代武将通称は又太郎。号は無二。志段味城主、また尾張国山田郡新居(愛知県尾張旭市新居町)に進出して、新居城主となった。

略歴[編集]

水野良春の墓(退養寺

桓武平氏高望流、平良兼の子孫、尾張国山田郡水野郷(愛知県瀬戸市)に住した水野氏の一門である水野基家の曾孫と伝えられ、志段味郷(名古屋市守山区)を拠点とした豪族。

元々、水野氏は承久の乱水野高康が朝廷側で戦うなど尊皇であったが、元弘元年(1331年)の元弘の乱では、良春が護良親王を擁した吉野金峯山寺僧兵団の将として戦った。建武の新政が始まると、一時、郷里の志段味郷に帰ったが、延元元年(1336年)には吉野に戻って、南朝方として転戦した。

その後、再び志段味郷に帰り、志段味城を築城。

康安元年(1361年)に隠遁し、志段味郷の南を開墾して、新居村を開いた。応安元年(1368年)、弟の報恩陽定光寺から招聘し、新居村に退養寺を開山。応安7年(1374年)に新居城を築いて、一族の居城としたが、この年に没し、退養寺に葬られた。

なお、水野氏の末裔の多い新居村には、良春が吉野の修験道から持ち込んだとされる棒の手が伝えられた。良春の号「無二」をとって無二流と称され、現在では尾張旭市を代表する伝統芸能の一つとなっている。

参考文献[編集]

関連項目[編集]