武庫

武庫(むこ)とは兵庫県摂津地方の古地名で、尼崎から兵庫までの沿海部を言う。武庫の名は神功皇后紀にはじめて見え、務古とも書いた。(『摂津郷土史論』『古事記』『日本書紀』)

由来[編集]

武器を埋めたところ(『神社考』『元亨釈書』)、(むく)のある山(加茂真渕『万葉の解釈』)、御子(みこ)の訛(『住吉大社解状』)、向こうの意(『冠辞考』)など諸説ある。

上古文化の中心地である大和を出、難波から船を出さんとするとき、遥か対岸の地を望んで「向こう」と言ったとする説は無理の無い解釈として一般に認められている。 しかしながら、はるか難波の対岸から見えない場所や河川名にまで、武庫の名がつけられていることから、疑問がないわけではなく、古くからいくつかの説がある。  吉田東伍は「大日本地名辞書」、廣田神社の項で、祭神名天疎向津姫(あまさかるむかつひめ)に関して、向か津は武庫津に同じと指摘していることと、かつて向か津峰と呼ばれた武庫山=六甲山全山が往古、廣田神社の社領であったことは、考慮に値する。

摂津国風土記(逸文)は武庫の由来について次のように伝えている。


「(神功)皇后は摂津の国の海浜の北岸の廣田の郷においでになった。いま廣田明神というのはこれである。その故にその海辺を名づけて御前(みさき)の浜といい、御前の沖という。またその兵器を埋めた場所を武庫(むこ)という。今は兵庫という。」


この伝承は、兵庫県の旧家である 北風家が寛政7年(1795年)まで家宝として神功皇后の鎧を伝えていたことと整合する。

参考文献[編集]

  • 魚崎町誌編纂委員会 編『魚崎町誌』魚崎町誌編纂委員会、1957年。 
  • 日本歴史地理学会 (編集) 編『摂津郷土史論』弘文社、1927年。 
  • 風土記(吉野裕訳、平凡社ライブラリー、2000年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

  • 武庫 - Web版尼崎地域史事典『apedia』