榎美沙子

榎 美沙子(えのき みさこ、1945年昭和20年)1月23日 - )は、日本女性解放運動家・薬剤師・薬事評論家。生化学会会員・内分泌学会会員。婦人性教育協会準備会理事。なお「榎美沙子」はペンネームで、結婚時の本名は木内公子(きうち きみこ)である。旧姓は非公表。

経歴[編集]

その後のエピソード[編集]

美沙子の活動は日本社会にウーマンリブ運動の存在を初めて知らしめたものとの評価もあるが、世間には美沙子の奇矯なイメージのみが残った。

同じく薬剤師であった夫は美沙子の一連の活動に一切口を挟まず黙って見ていたが、選挙惨敗・日本女性党解散時のインタビューで「これで目が覚めただろう。選挙に出たので妻には莫大な借金がある。しっかり働かせて全額返済させる」と語り、美沙子も「以後、夫に尽くします」と家庭に入る。以後美沙子は夫の指示の下、主婦と薬剤師業に専念することになった。美沙子はそれまでの主張とは全く正反対の立場に置かれるという皮肉な結末を迎えた。借金完済後は夫に家を追い出され、1983年に協議離婚[1]。美沙子は京都市内にアパートを借りて一人暮らしを始め、更に数年後司法試験を目指して法律の勉強をしているという情報が雑誌週刊新潮』に取り上げられた。

1992年には、みずからが事務所として一室を借りていた東京新宿のマンションの立ち退きをめぐり、家主の日本バプテスト連盟から東京地裁に提訴されている[1]。このマンションの建物を日本バプテスト連盟が興和不動産に売却したにもかかわらず、榎が立ち退きを拒否したためであった[1]。当時、榎は、この裁判を機に「楽しく地上げと闘う会」を結成したと語っている[1]。また、

「意識して姿を消していたわけではありません。これからの運動の地ならしをして、気が付いたら十五年経っていただけです。今までは地道に組織作りに専念してきまして、その助走期間もようやく終りに近づきました。今、ジャンプに備えて身をかがめているところです」
「離婚してホッとしました。家族がいると行動が制約されるでしょう」
「女性解放運動は、私のライフワークです。ですから知的訓練を行なって、同志を育成してきました」
「生計は、翻訳で立てています。私の専門は生化学やバイオテクノロジーですが、幸いなことに、この分野の専門家は日本には少ないものですから、専門書を始め、技術文献、論文などを訳して日々の生活費にしました」
「中ピ連は、当時から非難囂々でしたが、その時の主張は今や社会の常識になりつつあります。その点、当時のタブーを破ったことは功績だと思っております。行動が過激だったなんて、少しも思いませんわ」

とも発言している[1]

その後司法試験を受験した形跡はなく、ついに消息も不明となった。親族もその行方を知らないという[2]

主なテレビ出演[編集]

著書[編集]

  • 『ピル』 カルチャー出版社 1973年
  • 『ピルの本』(ムーブックス) 大陸書房 1976年

共訳書[編集]

参考文献[編集]

  • 「榎美沙子と中ピ連」(秋山洋子『リブ私史ノート 女たちの時代から』所収 インパクト出版会、1993年1月、ISBN 4755400309

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e 週刊新潮平成4年4月30日5月7日合併号「中ピ連『榎美沙子』が始めた新運動」
  2. ^ 選挙落選後、離婚、京都市内に一人暮らし、司法試験の勉強等のエピソードについては『週刊新潮』平成13年8月16日・23日夏季合併号の特集記事「ワイド 人生「秋風烈日」の悲喜劇 【民主主義が育てた「勁い女」列伝】第8回 翔んでる女「榎美沙子」「ゲバルト・ローザ」「やまのべもとこ」の消息」に掲載された。平成4年の時点では美沙子に直接取材できた同誌編集部であったが、この時には既に美沙子と連絡がつかなくなっており、同記事掲載に際して新たに本人に直接取材した内容はない。ただ同記事中、徳島県在住の美沙子の親族が同誌記者の取材に応じており、その親族は選挙落選以降の美沙子の動静について一通り語った後、「今はもう美沙子と連絡が取れず消息は分からない」(2001年現在)と述べている。