梅田盛庸

梅田 盛庸(うめだ もりつね、? - 宝暦6年12月23日1757年2月11日))は、江戸時代中期の薩摩藩の藩士。は盛庸。通称は勘兵衛、のち杢兵衛。梅田治繁の子。家格小番。石高200石。薩摩藩での槍術本心鏡智流師範。父より鏡智流槍術を相伝する。

目附、納戸役人、御守殿添御用立、大坂留守居を勤める。宝暦6年(1756年)10月の「嶋津家分限帳」の「大坂留守居・200石 梅田杢兵衛」は盛庸の事である。なお、将軍徳川家重の嫡子竹千代が徳川家治と称してからは通字を「治」から「盛」とする。

年譜[編集]

  • 宝暦元年(1751年):目附に就任。
  • 宝暦2年(1752年):5月に納戸役人となり、10月に御守殿添御用立となる。
  • 宝暦6年(1756年)6月に大阪留守居となる。しかし同年12月23日に死去。墓は父と同じ曹洞宗松原山南林寺の墓地にあった。「称名墓誌」では法号はなかったという。

系譜[編集]

参考文献[編集]