梅田治教

梅田 治教(うめだ はるのり、生没年不詳)は、江戸時代後期の薩摩藩武士本心鏡智流槍術師範。は治教。通称は九左衛門。家格小番。藩職は薩摩郡山田地頭、郡山郷地頭、大隅郡桜島郷地頭や日置郡串木野郷地頭を勤める。また串木野郷地頭時代は側用人、当番頭を勤める。

「鹿児島城下絵図散歩」によると、天保13年(1842年)当時に現在の照国町13番地の地に「梅田九左衛門 548」とある。

なお安政6年(1859年)当時も同地に「梅田九左衛門」の名があり天保年間当時と面積は変わっていない。

盛香の頃には「治」の字は徳川家治の諱の字であったので使用禁止であったが、治教の代には徳川家治が死去してしばらくしていた上に文化8年に生まれた徳川家斉の娘が『盛姫』(後の佐賀藩鍋島直正夫人國子)と称したためか、槍術家の梅田家は「治」の字を再度通字として使用したようである。

年譜[編集]

  • 文政8年;薩摩郡山田地頭に就任。
  • 文政10年4月;郡山地頭に転じる。
  • 天保2年:桜島地頭に転じる[1]
  • 天保13年(1842年)3月:串木野郷地頭に転じる。当時、当番頭側用人
  • 天保14年(1843年)6月:串木野郷地頭を辞める。

脚注[編集]

  1. ^ なお、「諸郷地頭系図」では桜島地頭を『天保2年まで』としているが、同書に文政10年から天保2年の郡山地頭を「梅田九左衛門治教」としている上に、他の桜島地頭には「・・・年~」という書き方をしている。

参考文献[編集]

  • 友野春久、塩満郁夫「鹿児島城下絵図散歩」
  • 「串木野市史」
  • 「諸郷地頭系図」