松田喜一

松田 喜一(まつだ きいち、1887年(明治20年)12月1日 - 1968年(昭和43年)7月30日)は、熊本県出身の日本農業研究者教育者著述家である。

農業試験場技師時代に松田式麦作法を考案するなど、革新的な食料増産技術の発展に貢献[1]。 自ら日本初の民間農業実習所を開き48年間に亘り生徒を受け入れ後進育成に献身するなど、明治から昭和にかけて日本の農業発展に貢献した。また、全国各地に赴き講演を開き農業技術・精神の普及に尽くした。実習所で直接教育を受けた生徒は約三千六百名、講演で講習を受けた者は延べ約四万名に及ぶ[2]。その傍ら雑誌『農友』を自ら執筆、50年間に亘り刊行し、その他50冊におよぶ著書も執筆した。『農友』は毎号皇室にも届けられ、昭和天皇巡幸、各皇族の視察を受けた。藍綬褒章勲四等瑞宝章受章、従五位。「昭和の農聖」と謳われた[3]

略歴[編集]

エピソード[編集]

  • 農友会実習所での年二回、三日間ずつを使って行われた定期講習会には、喜一の話を聞くため毎回数千人、多いときには六千五百人もの人々が各地から集まった。長蛇の列が国鉄千丁駅から農場まで数キロに渡って続いた[4]
  • 実習所での生活は過酷を極めた。午前5時の朝礼から農作業は三食を挟み、夜まで続いた。食事は視察者が「も食わん」と顔をしかめたほどの粗食であったが、喜一は「論より証拠」の精神から率先して腐ったを食い、一日3~4時間の睡眠で労働や研究・執筆に励んだ[4][5]
  • 松田農場では戦前・戦中・戦後と一貫して一日たりとも朝礼での国旗掲揚・国歌斉唱が途絶えたことはなかった。終戦後、進駐軍に呼び出され取調べを受けたが、戦時中に軍部に睨まれるのも構わず、キリスト教の女学校(八代白百合学園高等学校)の食糧難に同情し援助したことがわかり、かえって感激を受け放免となった[4]
  • 喜一の祖父、松田喜七松橋町東松崎の用水工事のため、私財を投げ打ち大野川底井樋を設置したとされ、その偉業を称え同地区では現在でも東松崎底井樋(そこいび)太鼓踊りが催される[6]
  • 喜一と同じく熊本県出身で農業指導者・政治家として活動した三善信房は政界引退後の1954年(昭和29年)、喜一の設立した日本農友会の熊本県支部長に就任した[7]
  • 松田農場のその後 :17ヘクタールあった松田農場は喜一の死とともに忽然と消えた。その前、昭和40年に熊本の白川公園にあった喜一の銅像は農友神社(現在は松田神社)にうつされた。松田神社では4月9日の大祭があり、7月30日は喜一の命日で、喜一を偲ぶ。その外に、松田農場関係地でも、全国に散らばった農友会員が集まる日がある。[5]

松田喜一を取り上げた作品[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 岡村、参考文献、1983年、70頁。
  2. ^ 熊本日日新聞、参考文献。
  3. ^ 砂田光紀九州発 語り継がれる人びと 松田喜一…農業の理想追い求める(熊本県宇城市)」『YOMIURI ONLINE』(読売新聞)、読売新聞社、2007年9月22日。2010年7月25日閲覧。
  4. ^ a b c 松田喜一先生伝記編纂委員会、参考文献、1972年6月。
  5. ^ a b 熊本日日新聞、参考文献。
  6. ^ 宇城市 伝 統 ・ 伝 承 ・ 文化 の共演
  7. ^ 熊本日日新聞社・熊本県大百科事典編集委員会 編 『熊本県大百科事典』 熊本日日新聞社、1982年(昭和57年)4月25日、801頁

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 岡村良昭 『土の譜 熊本農業50年・人と農協』旭出版、1983年11月。
  • 松田喜一先生伝記編纂委員会 『昭和の農聖 松田喜一先生』興文社内松田喜一先生銅像保存会、1972年6月。
  • 『熊本日日新聞』、1999年6月28日、17面。
  • 編集中村貞夫『熊本教育の人的遺産』熊本県退職校長会 2010年12月 (宮川行志:「百姓の神様 松田喜一」p.34-35.