松平隆見

 
松平 隆見
時代 江戸時代初期
生誕 不明[注釈 1]
死没 天和2年2月4日(1682年3月12日)[1]
別名 半左衛門、甚三郎(通称[2]
戒名 鉄心[3]
墓所 東京都新宿区法蔵寺[2]
幕府 江戸幕府
氏族 西福釜松平家
父母 父:松平行隆、母:小畠良春の娘[2]
兄弟 隆見隆春、娘(内藤正重室)、娘(天野光包室)、行中、娘(久保勝時室)、娘(富永師勝室)、娘(山下昌勝室)[1]
成瀬正勝の養女[3]
娘(松平隆欽室)[3]
養子:松平隆欽[3]
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松平 隆見(まつだいら たかみ[4])は、江戸時代前期の旗本。長崎奉行(在任:1666年 - 1671年)などを務めた。

生涯[編集]

松平行隆の長男として生まれる。承応2年(1653年)に家督を継承[2]。父の遺領1300石のうち300石を弟の松平隆春に分け、1000石を継いだ[2]

承応3年(1654年)に御小姓組番士となったのち、万治2年(1659年)に将軍の命により「所々の土居修理の奉行」を務める[2]寛文2年(1662年)に御使番となり、布衣を許される[2]。寛文5年(1665年)、御先手弓頭となる[2]

寛文6年(1666年)3月19日、長崎奉行に転じるとともに、500石を加増された[2]。相役は河野通定(在任:1666年 - 1672年)。

長崎に来航した中国船と日本人商人との交易(長崎貿易参照)は、日本の船宿を介した相対貿易法によって行われており、中国商人が指定した船宿(「差宿」と呼ばれる)が、商人の宿泊や商品の保管、取引の斡旋などを担っていた[5]、寛文6年6月9日、隆見は指示を出し、来航した中国商人の宿泊・商品保管・取引斡旋などの業務を各町に振り当てることとした(船宿が担っていた機能を担う町を「宿町」と呼ぶ)[6]。この措置は、奉行所による貿易統制を強化する目的と見られる[7][注釈 2]

寛文6年(1666年)8月、朝鮮で幽閉されていたオランダ人ヘンドリック・ハメルらが五島列島に脱出した[9]。ハメルらは五島藩に保護され長崎に護送された[9]。隆見はハメルらを漂流を偽装したキリスト教宣教師と疑い厳しく詮議したうえで、オランダ商館に身柄を引き渡した[9]

寛文9年(1669年)、長崎奉行所は萩原祐佐に命じて真鍮製の踏絵板を作らせた(絵踏みそのものは寛永年間(1620年代)に始まっている)が[10]、当時の長崎奉行が隆見と河野である。また寛文9年(1669年)には、崇福寺住職の任免(長崎奉行所の許可が必要であった)に関して即非曇瑞を叱責している[11]。寛文10年(1670年)には、オランダ東インド会社の薬剤師ゴットフリード・ヘック (Godefried Haeck) [注釈 3]に要請し、長崎周辺の薬用植物調査を行わせている[12]

寛文11年(1671年)に職を辞して寄合となるが[2]延宝7年(1679年)に普請奉行となった[2]

天和2年(1682年)死去[1]戸田忠時の次男(松平隆欽)を婿養子に迎えた[3]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『寛政譜』には隆見の没年の記載がない。弟の隆春は貞享2年(1685年)に61歳で没しているため寛永2年(1625年)生まれである。
  2. ^ 隆見退任後の寛文11年(1671年)には奉行所と町年寄が取引の主導権を握るように改められ、1672年(寛文12年)に貨物市法が制定されている[8]
  3. ^ 「ゴットフリード・ヘック」はドイツ語読みで、オランダ語読みでは「ホーデフリート・ハーク」[12]。同時代の日本語資料では「コツトフレイル」と記される[13]。ミヒェル・ヴォルフガングは、2003年の論文で「ホーデフリート・ハーク」として言及しているが、2007年の論文では彼がドイツ人であったという推定のもと「ゴットフリード・ヘック」に改めている[13]

出典[編集]

  1. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』pp.227-228
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.227
  3. ^ a b c d e f 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.228
  4. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻四十四、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.226
  5. ^ 安野真幸 1967, pp. 75–77.
  6. ^ 安野真幸 1967, pp. 78–79.
  7. ^ 安野真幸 1967, pp. 79–80.
  8. ^ 安野真幸 1967, pp. 81–82.
  9. ^ a b c 小川隆章 2018, p. 99.
  10. ^ 踏絵”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 2021年6月10日閲覧。
  11. ^ 鍋本由徳 2020, pp. 63–64.
  12. ^ a b ヴォルフガング、ミヒェル 2003, p. 28.
  13. ^ a b ヴォルフガング、ミヒェル 2007, p. 34.

参考文献[編集]