東洲斎写楽

東洲斎写楽
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 浮世絵
代表作 #作品を参照
活動期間 1794年 - 1795年
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三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛[注 1](寛政6年〈1794年〉5月河原崎座上演の『恋女房染分手綱』より)

東洲斎 写楽(とうしゅうさい しゃらく、とうじゅうさい しゃらく[3][4]生没年不詳)は、江戸時代中期の浮世絵師

約10か月の短い期間に役者絵その他の作品を版行したのち、忽然と姿を消した謎の絵師として知られる。その出自や経歴については様々な研究がなされてきたが、現在では阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛(さいとう じゅうろべえ、宝暦13年(1763年) - 文政3年(1820年))とする説が有力となっている。

来歴[編集]

三代目澤村宗十郎の大岸蔵人(寛政6年5月都座上演の『花菖蒲文禄曽我』より)

画業[編集]

写楽は寛政6年(1794年)5月から翌年の寛政7年(1795年)1月にかけての約10か月の期間(寛政6年には閏11月がある)内に、145点余の作品を版行している。

寛政6年5月に刊行された雲母摺、大判28枚の役者の大首絵は、デフォルメを駆使し、目の皺や鷲鼻、受け口など顔の特徴を誇張してその役者が持つ個性を大胆かつ巧みに描き、また表情やポーズもダイナミックに描いたそれまでになかったユニークな作品であった。その個性的な作品は強烈な印象を残さずにはおかない。代表作として、「市川蝦蔵の竹村定之進」、「三代坂田半五郎の藤川水右衛門」、「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」[5]、「嵐龍蔵の金貸石部金吉」などがあげられる。この時期の落款は全て「東洲斎写楽画」である。

寛政6年7月から刊行された雲母摺、大判7枚の二人立ちの全身像、1枚の一人立ち図及び細判の単色背景による一人立ち図30枚から成る第2期の落款は「東洲斎写楽画」である。いずれも緊張感のある画面構成であった。寛政6年11月からの第3期は顔見世狂言に取材した作品58図、役者追善絵2点、相撲絵2種4図(3枚続1種と一枚絵1種)の合計64図を制作、間判14図及び大判3枚続相撲絵以外の47図は全て細判であった。何れの作品も雲母は使用せず、背景の描写が取り込まれており、その背景が連続した組物が多い。芸術的な格調は低く、「東洲斎写楽画」及び「写楽画」の2種の落款がみられる。第4期は寛政7年正月の都座、桐座の狂言を描いた細判10枚の他、大判相撲絵2枚、武者絵2枚の合計14図を刊行、落款は全て「写楽画」である。

役者絵は基本的に画中に描かれた役者の定紋や役柄役処などからその役者がその役で出ていた芝居の上演時期が月単位で特定できることから、これにより作画時期を検証することが現在の写楽研究の主流をなしている。

写楽作品はすべて蔦屋重三郎の店から出版された(挿図の左下方に富士に蔦の「蔦屋」の印が見える)。その絵の発表時期は4期に分けられており、第1期が寛政6年(1794年)5月(28枚、全て大版の黒雲母大首絵)、第2期が寛政6年7月・8月(二人立ちの役者全身像7枚、楽屋頭取口上の図1枚、細絵30枚)、第3期が寛政6年11月・閏11月(顔見世狂言を描いたもの44枚、間版大首絵10枚、追善絵2枚)、第4期(春狂言を描いたもの10枚、相撲絵2枚を交える)が寛政7年(1795年)1・2月とされる。写楽の代表作といわれるものは大首絵の第1期の作品である。後になるほど急速に力の減退が認められ、精彩を欠き、作品における絵画的才能や版画としての品質は劣っている。前期(1、2期)と後期(3、4期)で別人とも思えるほどに作風が異なることから、前期と後期では別人が描いていた、またあまりに短期間のうちに大量の絵が刊行されたことも合わせて工房により作品が作られていたとする説もある。

作品総数は役者絵が134枚、役者追善絵が2枚、相撲絵が7枚、武者絵が2枚、恵比寿絵が1枚、役者版下絵が9枚、相撲版下絵が10枚確認されている[注 2][9]。2008年に写楽作とみられる肉筆の役者絵が確認された(後述)。

写楽の役者絵には勝川春章鳥居清長勝川春好勝川春英及び上方の流光斎如圭狩野派、曾我派などの画風の影響が指摘されている。

写楽の正体[編集]

江戸名所図会』などで知られる考証家斎藤月岑天保15年(1844年)に著した『増補浮世絵類考』には、「写楽斎」の項に「俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿州侯の能役者也」(通名は斎藤十郎兵衛といい、八丁堀に住む、阿波徳島藩蜂須賀家お抱えの能役者である)と書かれている[10]。長くこれが唯一の江戸時代に書かれた写楽の素性に関する記述だった[注 3]。当時の八丁堀には、徳島藩の江戸屋敷が存在し、その中屋敷に藩お抱えの能役者が居住していた。また、蔦屋重三郎の店も写楽が画題としていた芝居小屋も八丁堀の近隣に位置していた。“東洲斎”という写楽のペンネームも、江戸の東に洲があった土地を意味していると考えれば、八丁堀か築地あたりしか存在しない。

しかし、長らく斎藤十郎兵衛の実在を確認できる史料が見当たらず、また能役者にこれほどの見事な絵が描ける才能があるとは考えづらかったことから、「写楽」とは誰か他の有名な絵師が何らかの事情により使用した変名ではないか[注 4]という「写楽別人説」が数多く唱えられるようになった。蔦屋が無名の新人の作を多く出版したのは何故か、前期と後期で大きく作品の質が異なるうえ、短期間で活動をやめてしまったのは何故か、などといった点が謎解きの興味を生んだ。

別人説の候補として絵師の初代歌川豊国歌舞妓堂艶鏡[注 5]葛飾北斎[注 6]喜多川歌麿[19]司馬江漢[20]谷文晁円山応挙、歌舞伎役者の中村此蔵[21]、洋画家の土井有隣[22]戯作者でもあった山東京伝十返舎一九、俳人の谷素外[23]、版元の蔦屋重三郎[24]、西洋人画家[25]など、多くの人物の名があげられた。

しかし以下の研究によって斎藤十郎兵衛の実在が確認され、八丁堀に住んでいた事実も明らかとなり、平成時代には再び写楽=斎藤十郎兵衛説が有力となっている。その根拠は以下の諸点である。

  1. 能役者の公式名簿である『猿楽分限帖』や能役者の伝記『重修猿楽伝記』に、斎藤十郎兵衛の記載があることが確認されている。
  2. 蜂須賀家の古文書である『蜂須賀家無足以下分限帳』及び『御両国(阿波と淡路)無足以下分限帳』の「御役者」の項目に、斉藤十郎兵衛の名が記載されていたことが確認されている。
  3. 江戸の文化人について記した『諸家人名江戸方角分』の八丁堀の項目に「号写楽斎 地蔵橋」との記録があり、八丁堀地蔵橋に“写楽斎”と称する人物が住んでいたことが確認されている[注 7]。なお、国立国会図書館に所蔵される同書の写本には文政元年(1818)7月5日に書写された旨の奥書があるが、八丁堀地蔵橋の写楽斎の項には当該人物が故人であることを示す記号が付されており、斎藤十郎兵衛が文政3年(1820年)まで存命であったことと齟齬をきたしている[26][注 8][注 9]
  4. 埼玉県越谷市浄土真宗本願寺派今日山法光寺[注 10]過去帳に「八丁堀地蔵橋 阿州殿御内 斎藤十良(郎)兵衛」が文政3年(1820年)3月7日に58歳で死去し、千住にて火葬されたとの記述が平成9年(1997年)に発見され、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀地蔵橋に住んでいたことが確認されている。斎藤十郎兵衛が住んでいた八丁堀地蔵橋は現在の日本橋茅場町郵便局の辺りになる。

以上のことから、阿波の能役者である斎藤十郎兵衛という人物が実在したことは間違いないと考えて良さそうだが、齋藤月岑の記した写楽が斎藤十郎兵衛であるという記述を確実に裏付ける資料は発見されていない[注 11]。ただし、『浮世絵類考』の写本の一部[注 12]には「写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり」とある。栄松斎長喜は写楽と同じ蔦屋重三郎版元の浮世絵師であり、写楽のことを実際に知っていたとしてもおかしくはない(長喜の作品「高島屋おひさ」には団扇に写楽の絵が描かれている)。

なお八丁堀の亀島橋たもとにある東京都中央区土木部が設置した「この地に移住し功績を伝えられる人物」の案内板には、東洲斎写楽と伊能忠敬が紹介されている。

作品[編集]

二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊(寛政6年5月河原崎座上演の『義経千本桜』より)

第一期[編集]

都座『花菖蒲文禄曽我』取材作品
桐座『敵討乗合話』取材作品
  • 「松本米三郎のけはい坂の少将実はしのぶ」 大判 寛政6年 城西大学水田美術館、中右コレクション、ボストン美術館メトロポリタン美術館、ホノルル美術館、キヨッソーネ東洋美術館、ユゲット・ベレスコレクション、ギメ東洋美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数17点
  • 「四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛」 大判 寛政6年
  • 「三代目市川高麗蔵の志賀大七」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
  • 「中山富三郎の宮城野」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
  • 「初代尾上松助の松下造酒之進」 大判 寛政6年
  • 「中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の舟宿かな川やの権」 大判 寛政6年 大英博物館所蔵
河原崎座『恋女房染分手綱』、『義経千本桜』取材作品
  • 「四代目岩井半四郎の乳人重の井」 大判 寛政6年 東京国立博物館、城西大学水田美術館、中右コレクション、ギメ東洋美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数13点
  • 「初代谷村虎蔵の鷲塚八平次」 大判 寛政6年 東京国立博物館、城西大学水田美術館、平木浮世絵美術館 UKIYO-e TOKYO、ホノルル美術館、ハーバード大学美術館、大英博物館などが所蔵、現存確認数13点
  • 「岩井喜代太郎の鷺坂左内妻藤波と坂東善次の鷲塚官太夫妻小笹」 大判 寛政6年 浮世絵 太田記念美術館、城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数3点[32]
  • 「三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛」 大判 寛政6年 東京国立博物館、大英博物館所蔵
  • 「市川鰕蔵の竹村定之進」 大判 寛政6年 慶應義塾所蔵 重要文化財

第二期[編集]

都座『傾城三本傘』
  • 「三代目瀬川菊之丞の傾城かつらぎ」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数6点
  • 「二代目嵐龍蔵の不破が下部浮世又平」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数3点
  • 「篠塚浦右衛門の都座口上図」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
桐座『神霊矢口渡』、『四方錦故郷旅路』取材作品
  • 「八代目森田勘弥の由良兵庫之介信忠」 細判 寛政6年 城西大学水田美術館などが所蔵、現存確認数5点
  • 「三代目市川高麗蔵の亀屋忠兵衛と中山富三郎の新町のけいせい梅川」 大判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
河原崎座『二本松陸奥生長』取材作品
  • 「三代目大谷鬼次の川島治部五郎」 細判 寛政6年 東京国立博物館所蔵
  • 「市川男女蔵の富田兵太郎」 細判 寛政6年 シカゴ美術館所蔵

第三期[編集]

桐座『男山御江戸盤石』取材作品
  • 「天王寺屋里好」 間判 大英博物館所蔵
  • 「三世瀬川菊之丞の大和万歳実は白拍子久かた」細判
  • 「二世中村仲蔵の才蔵実は荒巻耳四郎」 細判
  • 「六世市川団十郎の荒川太郎」 間判
  • 「二世中島三甫右衛門と中村富十郎 二世市川門之助」 間判2枚続
  • 「大童山土俵入り」 大判3枚続 相撲絵

第四期[編集]

  • 「市川鰕蔵の工藤祐経 三世市川八百蔵の十郎祐成 六世市川団十郎の五郎時宗」 細判3枚続
  • 「大童山の鬼退治」 大判

肉筆画[編集]

四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」(ギリシア国立コルフ・アジア美術館収蔵)

2008年、ギリシャの国立コルフ・アジア美術館が収蔵する浮世絵コレクションに対して日本の研究者(小林忠ら)が学術調査を行い、写楽の署名のある肉筆扇面画『四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪』が確認された、と発表した。絵柄の場面は寛政7年5月(1795年6月)に江戸河原崎座で上演された『仮名手本忠臣蔵』の配役と一致することから、従来写楽が姿を消したと思われていた1795年初頭以後に描かれたものと推定されている。画中に筆跡から後世の持ち主が書き加えたと見られる、四代目幸四郎を五代目幸四郎とし、小波ではなく妻・戸無瀬に言う台詞を書き付けるなど「明らかな誤記」が見られる。また、筆致は繊細で、少なくとも二度は改装され若干周囲を切り取られており、現在の状態では窮屈な印象を受ける。しかし、写楽の版画作品に通じる美化を捨象した面貌表現、二人の人物の感情表現の的確さ、絵の具の鮮麗さ配合の妙、など鑑定上の不自然さが感じられない。特に写楽画のほぼ全て[注 13]に共通する耳の描き方[33]も、線が一本化している部分がある以外は全く同じ描法で、幸四郎の他の顔の皺の本数や特徴も、四代目幸四郎を描いた写楽の版画作品4点と同様である。描かれている場面も、通常は描かれていない特異な場面で、後世の捏造の可能性は低い。落款も花押の終筆部分に筆者が故意につけた三つ葉のクローバーのような突起を持ち、この特異な特徴は後述の「老人図」と共通する。写楽筆と伝わる肉筆画は数点知られているが[34]、多くの専門家が確実と認めた作品はこれのみとされる[35]

反面、この肉筆扇面画の鑑定に疑問を呈する見解もある。『新版 歌舞伎事典』の「東洲斎写楽」の項目は鑑定した小林忠の執筆だが、「版下絵とされる役者群像9点と相撲絵10点の素描、および若干の肉筆画が報告されているが、写楽真筆と公認されるまでには至っていない」と、自説が受け入れられていないのを認めている[36]

中嶋修は『〈東洲斎写楽〉考証』で、明治以降写楽の贋作が版画・版下絵・肉筆画問わず大量に作られたことを指摘した上で、ギリシャの扇面画ではないものの『老人図』の発見状況を取り上げ、「瀬川菊之丞団十郎白猿芳澤あやめ宮古路豊後掾などの歌舞伎界諸名人の自筆短冊も一緒に出て来た」という設定自体、明治以降の写楽評価に基づくもので、真筆の可能性は皆無としている[37]。こうした見解を受けてか、『最新 歌舞伎大事典』の「東洲斎写楽」の項目でも、「写楽の作品は、2008年に発見の扇面画をはじめ真贋が十分に検討されているとは言い難く、歌舞伎資料として利用するには注意を要する」と、鑑定に慎重な姿勢を示している[38]

評価[編集]

写楽は寛政6年5月の芝居興行に合わせて28点もの黒雲母摺大首絵とともに大々的にデビューを果たしたが、絵の売れ行きは芳しくなかったようである。特定の役者の贔屓からすればその役者を美化して描いた絵こそ買い求めたいものであり、特徴をよく捉えているといっても容姿の欠点までをも誇張して描く写楽の絵は、とても彼らの購買欲を刺激するものではなかったのである。しかも描かれた役者達からも不評で、『江戸風俗惣まくり』(別書名『江戸沿革』、『江戸叢書』巻の八所収[4])によれば、「顔のすまひのくせをよく書いたれど、その艶色を破るにいたりて役者にいまれける」と記されている。

全作品の版元であった蔦屋重三郎と組んで狂歌ブームを起こした狂歌師の大田南畝は、「これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム」(仲田勝之助編校『浮世絵類考』[5]より)、役者をあまりにもありのままに描いたからすぐに流行らなくなったと写楽の写実的な姿勢を評している。ただし南畝の著した原撰本の『浮世絵類考』には岩佐又兵衛から始まって三十数名の絵師の名と略伝を記すが、そのなかで写楽のことを取り上げたのは、少なくとも南畝から見て写楽は無視できない絵師だったことを示しているという見方もある。

ドイツの美術研究家ユリウス・クルト[注 14]はその著書『SHARAKU』(明治43年(1910年))[39]の中で、写楽のことを称賛し、これがきっかけで大正頃から日本でもその評価が高まった[注 15][注 16][注 17]。しかし写楽の役者絵が版行された当時においては、写楽よりも同時代の初代豊国描くところの役者絵が受け入れられたのであり、中山幹雄勝川春英や初代豊国、歌川国政などの描いた役者絵と比べた上で、写楽を次のように評している。

江戸期当時の役者絵の流れは、勝川派から豊国へと移ってゆくのが主流で、写楽は、あくまでも孤立した存在であったことを確認しておくべきであろう。(中略)これまで写楽の諸説を発表してきた人は、その役者絵を論じながらも江戸時代の歌舞伎にあまり造詣のない美術研究家かコレクターや好事家といった人たちで、一方、歌舞伎の専門家であっても絵を見る範囲の限られた人が写楽を追ってきた。美術評論もすると同時に、歌舞伎の研究や舞台現場の経験もある者は、写楽をそれほど高く評価しないにちがいない。(中略)写楽を捨て、豊国を選んだ江戸庶民の眼を、高く評価したい[41]

影響[編集]

写楽の役者絵は歌舞妓堂艶鏡水府豊春歌川国政などに影響を与えている他、栄松斎長喜も写楽に似た画風の役者絵を制作している。

かつてイギリスで制作された人形特撮番組サンダーバードでは、トレーシー家のラウンジでジェフが座る背後上部に「二代目瀬川富三郎の大岸蔵人の妻やどり木」、向かって右壁面に「四代目岩井半四郎の乳人重の井」、更にデスク脇のサイドパネル部分には「中村勘蔵の馬子寝言の長蔵」が、それぞれ飾られている[42]

世界三大肖像画家の真偽[編集]

一般には写楽の評価に関して、ドイツの美術研究家ユリウス・クルトがその著書『Sharaku』のなかで、写楽のことをレンブラントベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と称賛し、これがきっかけで大正頃から日本でもその評価が高まった、との説明が流布している[注 18]

しかし、『Sharaku』の1910年刊行初版、1922年刊行改訂増補版、及び1994年刊行の日本語訳版『写楽 SHARAKU』のいずれにおいても、クルトによる序文並びに本文に「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する記述は見られない[注 19][注 20]。日本語訳版『写楽 SHARAKU』においては楢崎宗重の推薦文(帯)並びに翻訳者定村忠士による解題に「世界三大肖像画家」への言及はある[45]が、これは一般論として述べたものであり、クルト自身の文章を引用したものではない。

Sharaku』以外のクルトの著作や、明治大正頃の国外の浮世絵文献からも同趣旨の文言は見つかっておらず、後述のようにこの評価はエビデンスがない[注 21]

岸文和同志社大学文学部)は2002年論文で次のように指摘している[47][注 22]

いったい何時、誰によって、この文言がクルトに帰せられるトポスになったかについては、現時点で、不明である。しかし、この文言がクルトのテクスト――初版/増補版とも――に見当たらないことは確実なのである。

『写楽 SHARAKU』の日本語訳に当たった定村忠士は、1995年に別の書籍で次のように指摘している[49]

実際に『写楽』にあたってみると、そんな言葉はどこにも書かれていない。クルトは『写楽』以外にも『日本木版画史』(一九二五~二九年)など浮世絵に関する論文を多数発表している。おそらくそのどこかで、こうした趣旨の言葉を書いたものが、いつのまにやら『写楽』のなかの言葉として語られるようになったと推察するが、少なくともこうしたまことしやかな紹介のしかたでは、どこまで本当にクルトの『写楽』を吟味したのか、まことに覚束ない。私には、写楽論議の危うさがここに現れているように思えてならない。

中嶋修は「調べることができた中で」と断った上で「レンブラント、ベラスケス」という言葉が入った写楽論文の初出として 仲田勝之助「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年(1920)6月号)を挙げている[50][注 23][注 24]

佐々木幹雄も、仲田勝之助の著書『写楽』(アルス、1925年)[52]で、仲田個人の見解としてレンブラントやベラスケスに比肩する世界的肖像画家として写楽を紹介したことが「クルトが認定した三大肖像画家」に改変されて一人歩きを始めてしまったと指摘している[53]。アルス美術叢書による巻末の広告には「浮世絵史上の重鎮として独逸のクルト博士の詳しい研究により写楽が一躍レンヴラントやベラスクエスさへ比肩すべき世界的一大肖像画家たる栄誉を負ふに至つた」という仲田勝之助の本文中にはない一文が存在する[54]

及川茂は「こういう文章はクルトの著作には存在せず、後世の粉飾の気配がある」と断っている[55]

美術編集者富田芳和「クルトの『写楽』ではひとことも書かれていない文言が、日本人のだれかによって、クルトの写楽観を象徴する言葉としてつくり上げられ、一人歩きし、いつの間にか研究者の間で使い回しされる」という事態が生まれたと論じている[56]

作家高井忍は、1950年代に近藤市太郎が前述の仲田勝之助の評をクルトの見解だと取り違えて紹介し[注 25]、「世界三大肖像画家」の評価の出典をクルトの著書とする説明が日本国内に広まって定着するのは榎本雄斎の著作『写楽――まぼろしの天才』(新人物往来社、1969年)以降だと主張している[57]

世界三大肖像画家をクルトの言説だと紹介した最も早い事例には藤森成吉著『知られざる鬼才天才』(一九六五年、春秋社)所収の「宮川長春」がある。藤森は高橋誠一郎の著書『浮世絵二百五十年』(一九三八年、中央公論社)の写楽記事を引用した上で、次のように述べている[58]

クルトの発見的功績は高く評価するが、写楽を「レンブラント及びヴェラスケスと並んで世界三大肖像画家中の一人」とする限定は承服しがたい。写楽の役者絵が二重写し的肖像画たることを、ぼくは『渡辺崋山の人と芸術』中に指摘したが(この二重写し的肖像画論はさらに評論する必要がある)、世界肖像画家を論じるなら、クラナッハやホルバインやヴァン・ダイクを措くとしても、いや、崋山やルーベンスを措くとしても、デューラーやゴヤやファン・アイクを逸することはできない。「三大肖像画家」なぞときめるのは、写楽への陶酔的軽率か無知というほかない。

しかし、現存するクルトの著作にはこうした言説はなく、高橋もクルトの説だったとは書いていない。藤森は高橋による評価をクルトの著作からの引用だと誤認して、クルト自身は主張していない言説に対して批判を加えたのである。仮にこの言説の初見が藤森の著作をさかのぼることができないなら、世界三大肖像画家をクルトの言説だとする誤認は写楽を過大評価として批判する立場の側から広がったということになる。

瀬木慎一は、「世界三大肖像画家」については言及していないものの「読みもしないで、クルト、クルトとしきりに援用するのは危険である」と苦言を呈している[59][注 26]

英語版WikipediaのSharaku英語版の項には"Kurth ranked Sharaku's portraits with those of Rembrandt and Velázquez"との記載があるが、出典として挙がっているのはクルトの著作ではなく、東洋美術史家ヒューゴ・ムンスターバーグ(1916-1995)の1982年の著作『The Japanese Print: A Historical Guide [60]と近藤市太郎の1955年の著作の英訳『Toshusai Sharaku[61]である。スペイン語版WikipediaのTōshūsai Sharakuスペイン語版の項にも同趣旨の記載があるが、出典として挙がっているのは日本国内のイベントの広報[62]である。

「世界三大肖像画家」として写楽を紹介することは1930年代から前述の高橋誠一郎らの使用例がある[注 27]。評価が定着する以前には、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ベラスケスと共に「世界三大肖像画家」とする説[63]や、レンブラントやデューラーにも比すべき偉大さを認められたとする説[64]、クルトの『SHARAKU』によって「世界最大の肖像画家レムブラント、或は、彼以上の肖像画家」と賞賛されたとする説[65][66]などがあった。

ジェームズ・ミッチェナーは1954年の著書『The Floating World』の中で、写楽の作品をレンブラント、ベッリーニ、ベラスケス、ホルバインに匹敵する肖像画だと賞賛している[67]

なお、「世界三大肖像画家」をベラスケスに替えてルーベンスを加える説も流布している[68][69]

写楽を題材とした作品[編集]

著作
  • 近藤啓太郎著『しやらくせえ あほくせえ』(1979年、角川書店)
  • 高橋克彦著『写楽殺人事件』 (1983年、講談社→1986年、講談社文庫)
  • 石ノ森章太郎著『死やらく生―佐武と市捕物控』 (1983年、中央公論新社)
  • 池田満寿夫・川竹文夫共著『これが写楽だ 池田満寿夫推理ドキュメント』(1984年、日本放送出版協会)
  • 梅原猛著『写楽仮名の悲劇』 (1987年、新潮社→1991年、新潮文庫)
  • 明石散人佐々木幹雄著『東洲斎写楽はもういない』(1990年、講談社→1993年、講談社文庫)
  • 清水義範著『金鯱の夢』(1992年、集英社)
  • 泡坂妻夫著『写楽百面相』(1993年、新潮社→1996年、新潮文庫→2005年、文春文庫)
  • 磯田啓二著『偽小説東洲斎写楽』(1993年、三一書房)
  • 皆川博子著『写楽』(1994年、角川書店→2020年、角川文庫)
  • 石森史郎著『東洲斎写楽 Sharaku,who?』(1996年、五月書房
  • 島田荘司著『写楽 閉じた国の幻(上下)』 (2010年、新潮社→2013年、新潮文庫)
  • 鯨統一郎著『新・日本の七不思議』 (2011年、東京創元社)
  • 高井忍著『浮世絵師の遊戯 新説東洲斎写楽』 (2016年、文芸社)
  • 野口卓著『大名絵師写楽』 (2018年、新潮社)
  • 吉川永青著『写楽とお喜瀬』 (2019年、NHK出版)
  • 森明日香著『写楽女』 (2022年、角川春樹事務所)
映画
ラジオドラマ
テレビドラマ
テレビ番組
  • NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』(1984年、日本放送協会)
  • ハイビジョン特集 天才画家の肖像 「謎の浮世絵師 ~ 東洲斎写楽」 (2008年、日本放送協会)
  • NHKスペシャル『浮世絵ミステリー 写楽〜天才絵師の正体を追う〜』(2011年、日本放送協会)
    写楽が斎藤十郎兵衛とほぼ断定するに至るまでの研究成果を紹介するとともに、歌舞伎役者の中村獅童がナビゲーターとなり、劇中劇で写楽を演じたほか自ら研究者の許へ取材に出向いた。
舞台
ミュージカル
漫画
  • 銀平飯科帳』(河合単
    この作品では現代からタイムスリップした美大生の3人が分担(絵を描く、版を掘る、掘った版に色を塗って刷る)して浮世絵を描き、絵に感動した芦谷重三郎が絵と彫りを担当した二人の名前から一字ずつ取った「写楽」の雅号を頂いた設定になっている。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 長い間、この図の役名は「大谷鬼次の江戸兵衛」とされていた。しかし、当時のどの番付記録にも「奴」は付いておらず、ただ「江戸兵衛」と記されている。また浅野秀剛によれば、この場合のは武家の奴僕という意味であるが、現存する台帳を見ると江戸兵衛は非人盗賊乞食)達の頭で、武家の下僕なら剃らねばならい月代も残っている事から「奴」はないと考えられる[1]。だがこの説には異論があり、いくつかの意味がある「奴」について、「武家の奴僕」というひとつの意味に固執しすぎていると指摘される。岩田和夫の示教によって、「奴には、武士の奴僕の意のほかに、競(きおい)・男達(おとこだて)の意味もあり、狂言によっては、江戸兵衛(平)がそういう役柄で登場する場合もあった。その際「奴江戸平」という役名になることもあったことが確かめられる。」と浅野自身ものちに認めている[2]
  2. ^ ただし、役者版下絵は2点が行方不明、相撲版下絵は9点が大正期に焼失している。そのため現在存在する楽の役者版下絵は、ギメ東洋美術館2点、ボストン美術館2点[6]シカゴ美術館1点[7]、摘水軒記念文化振興財団(千葉市美術館寄託)2点、の計7点(ギメ所蔵の2点のみ「写楽画」の落款あり)、相撲版下絵は個人蔵の1点のみである[8]
  3. ^ 『増補浮世絵類考』(正確にはケンブリッジ大学図書館所蔵の斎藤月岑自筆本)の発見は1960年代になってからであり、斎藤十郎兵衛が疑われ、別人説が支持された1950年代までの浮世絵研究者は、肯定論・否定論を問わず、『増補浮世絵類考』の写楽記事を知らなかったということは留意が必要である。[11]
  4. ^ ただし、寛政六年当時は戯作・浮世絵等の市販には事前の検閲が必要であり、制度上、作者の身元がしれない出版物は許可されなかった。寛政二年五月の町触れには「一 都て作者不知書物類有之は、商売致間敷候」の一条が見える[12]
  5. ^ 狩野寿信編『本朝画家人名辞書(下)』(大倉書店,1893年)「歌舞妓堂」並びに「写楽」の項[13]で、両者を同一人物として見做している。『SHARAKU』を著したクルトは林忠正[14]、バルブートーの先行研究を踏まえ、写楽が歌舞妓堂艶鏡に改名したと考えていた[15]
  6. ^ 田中は『浮世絵類考』の一部の写本に、写楽と北斎を同一人物と読めることを論拠に上げている[16]。しかし、これは伝写の過程で北斎の記述が紛れ込んだものだと考えられる[17]。また、田中は写楽と北斎の武者絵における脛の描き方の類似も根拠として挙げている。しかし、北斎の師で、写楽が作画の参考にしたと推定される勝川春章、及びその弟子たちの脛の描き方も類似している[18]
  7. ^ 同じ時期に八丁堀地蔵橋に住んでいた人物に、国学者村田春海南町奉行所与力儒者中田粲堂、斎藤月岑が絵を学んだ文人画家谷口月窓がいる。
  8. ^ 国立国会図書館所蔵本の記号の書入れについては諏訪春雄が筆跡による考証を試み、記号の書入れには四種類あって、写楽斎の故人の記号は後人による書入れだと判断を下している[27]。『諸家人名江戸方角分』の写楽斎記事の存在を最初に報告した中野三敏も、文政元年以後の物故者の記事にも故人の記号が複数あることや、本文とは別筆による書入れが存在することは認識していた(中野三敏 1976)。
  9. ^ 中野三敏は「方角分」の故人印が数次にわたって書き入れられているとしながらも、当初は写楽の項目に付せられた故人印を「方角分」成立時のものとみなし、写楽を「文政元年の時点で故人」としていた[28]。後年になり、諏訪春雄の指摘を受けて当該部分を「つけてある故人印を、もし原本にあった通りのものと認定出来れば、文政元年には故人となっている」に訂正している[29]
  10. ^ 法光寺は平成5年に越谷市三野宮へ移転したが、それまでは築地にあった(越谷市公式ホームページ「江戸幕府は西本願寺に対し八丁堀先の海辺を代地として指定し、本願寺はその地を埋め立てて御堂を建設。この御堂が現在の西本願寺築地別院の始まり」)。
  11. ^ 斎藤十郎兵衛説への批判には、石田泰弘『東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義』などがある[30]
  12. ^ 達磨屋伍一旧蔵本、奈河本助(二代金沢竜玉)旧蔵本。達磨屋伍一旧蔵本は奈河本助旧蔵本を書き写したものだと考証されている。奈河本助は天保13年(1842年)に死去しているため、奈河本助の手による書き込みなら、斎藤月岑の増補以前の加筆ということになる[31]
  13. ^ 第3期間版役者絵11枚を除く。
  14. ^ 日本国内の書籍などではしばしば美術評論家・心理学者として紹介されるが、ドイツ語版Wikipedia記事での肩書はPfarrer(牧師)・Privatgelehrter(民間の研究家)・Autor(著述家)である。ベルリン大学でプロテスタント神学を学び、1886年ハイデルベルク大学哲学部博士。日本・中国の木版画に関する著作を多数手がけた他、エジプト、近東の古美術のコレクターで、クルトのコレクションは死後にマルティン・ルター大学ハレ・ヴィッテンベルクの考古学博物館に収蔵された。
  15. ^ ただし、『Sharaku』刊行以前の日本国内でも、明治36年(1903年)に酒井好古堂から『写楽名画揃』が刊行されている。
  16. ^ 明治34年(1901年)2月15日『読売新聞』に飯島虚心の記事「写楽の雲母絵」があり、当時、写楽の贋作が盛んに作られていたことを記している。
  17. ^ ユリウス・クルトは『SHARAKU』が初めての浮世絵関係の著作だったわけではなく、『Utamaro』(明治40年(1907年))[40]、『Harunobu』(明治43年(1910年))をすでに刊行していた。
  18. ^ 近年の例では、平成23年(2011)5月開催の特別展『写楽』(東京国立博物館東京新聞NHKNHKプロモーション主催)の図録に「ドイツの美術評論家ユリウス・クルトは、すでに100年前、写楽をベラスケスやレンブラントとならぶ世界三大肖像画家として評価しています」[43]との記述があり、国内外で同展覧会の広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  19. ^ 『写楽 SHARAKU』以前の日本語訳としては中川四明(四明老人)による抄訳「寫樂の雲母繪」(『京都美術』芸艸堂、1917年27号~29号)、『浮世絵芸術』誌に掲載された井上和雄(雨石)の研究ノート[44]があるが、「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。
  20. ^ 『写楽 SHARAKU』刊行後の平成7年(1995)10月開催の『大写楽展』(東武美術館(2001年廃館)・NHK・NHKプロモーション主催)の図録に「今世紀になってドイツ人ユリウス・クルトによって、いわば再発見され、ベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家という評価も獲得しました」との記述があり、広報に使用されたが、その典拠の提示はない。
  21. ^ 2020年9月刊行の『浮世絵の解剖図鑑』に「後の世、海外の評論家からベラスケス、レンブラントと並ぶ「世界の三大肖像画家」と言われるようになります」[46]との記述があるが、同書は提唱者の名前を挙げておらず、また出典の提示はない 。
  22. ^ 菅原真弓は、ベラスケスやレンブラントに並ぶ三大肖像画家の一人という賞賛がクルトの『SHARAKU』に記されていないことを指摘した上で、クルトの写楽論と日本の写楽研究の≪ズレ≫についての興味深い論考として岸文和論文を紹介している[48]
  23. ^ 仲田勝之助論文「東洲斎写楽」(『美術画報』画報社、大正9年6月号)には「欧州の浮世絵愛好家に見出され、一躍レムブランドやベラスケスにさへ比肩すべき世界的肖像画家として認識」されるに至ったとあるだけで、出典は挙げていない。
  24. ^ ユリウス・クルトの写楽研究を最初に日本に紹介したとされるのは1914年発表の永井荷風の論文「浮世絵と江戸演劇」[51]だが、これには「世界三大肖像画家」「レンブラント」「ベラスケス」に関する言及はない。野口米次郎は『写楽』(第一書房、1926年)並びに『美の饗宴―六大浮世絵師論』(早川書店、1948年)を著し、両書で詳細にクルトの論を紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。鈴木重三著『写楽』(講談社、1966年)では、フェノロサ、クルトをはじめ、外国人研究者たちの写楽評を詳しく紹介しているが、「世界三大肖像画家」以下の言及はない。
  25. ^ 近藤市太郎編『写楽』(大日本雄弁会講談社、1955年)は仲田の『写楽』を参考文献に上げ、「ミュンヘンの一書肆から1910年に出版された『SHARAKU』によって、彼はレンブラントやベラスケスにも比肩すべき世界的肖像画家の栄誉を与えられたのである」と紹介している。同書はポール・ブルームの訳により“Kodansha Library of Japanese Art Series”中の一冊『Toshusai Sharaku』(C.E. Tuttle社英語版 , 1955年)として英訳版が刊行されている。
  26. ^ ただし、瀬木慎一自身も『江戸美術の再発見』(毎日新聞社、1977年)p179などで「写楽をベラスケス、レンブラントと並ぶ世界の三大肖像画家とする説がドイツ人クルトによって唱えられ」たといった趣旨の説明を行っている。
  27. ^ 高橋を会長として発足した日本浮世絵協会編『浮世絵名作選集 写楽 』(山田書院、1968年)のはしがき(文責者なし)には「世界中の人々から、レンブラントやベラスケスと並んだ世界の三大肖像画家として絶賛され、仰がれている」とあるが、『SHARAKU』の中にそうした文章があるとは書いていない。

出典[編集]

  1. ^ 浅野秀剛 2002, p. 55
  2. ^ 写楽:特別展 2009「江戸兵衛」の項。
  3. ^ 岩田秀行 2013, pp. 73–79(リンク切れ)
  4. ^ フィラデルフィア 2015, p. 190
  5. ^ ACジャパン2015年度の日本脳卒中協会支援キャンペーン「写楽」のCMで原画の画像データを加工して制作された画像が使われ、特にテレビCMでは動画アニメになっており、視聴者に脳梗塞の症状をビジュアルでわかりやすく表現している。(2016年7月現在、このCMはYoutubeなどで閲覧できる。こちらのURLなどを参照。>https://www.youtube.com/watch?v=G6xW4Zpx8Zc
  6. ^ [1][2]
  7. ^ [3]
  8. ^ ギメ東洋美術館所蔵 2007, p. 211
  9. ^ 浅野秀剛 2013, pp. 7–23
  10. ^ 大田南畝 著、仲田勝之助 編『浮世絵類考』岩波書店、1941年、118-119頁。NDLJP:1068946 
  11. ^ 小山騰 2020
  12. ^ 『御触書天保集成』下809(触書番号6417)
  13. ^ 本朝画家人名辞書. 下” コマ番号63番並びに65番
  14. ^ Dessins, estampes, livres illustrés du Japon” T. Hayashi, 1902.
  15. ^ ユリウス・クルト著 定村忠士・蒲生順二郎訳 1994, p. 188-189
  16. ^ 田中英道 2000田中英道 2011
  17. ^ 中嶋修 2012, pp. 15–16。
  18. ^ 大武者絵展 2003
  19. ^ 石田泰弘「写楽歌麿同人説」  福岡市美術館編『大歌麿展』公式図録(テレビ西日本、1998年1月6日)に収録。
  20. ^ 福富太郎『写楽を捉えた―浮世絵新発見』(1969年、画文堂
  21. ^ NHK特集『池田満寿夫推理ドキュメント 謎の絵師・写楽』(1984年、日本放送協会)
  22. ^ 井上和雄『写楽』昭和15年に「又能油画号有隣」の引用あり。出典は大草公弼『異本浮世類考』
  23. ^ 『写楽実は俳人谷素外』(『読売新聞』昭和44年10月16日号、日本浮世絵博物館館長・酒井藤吉)
  24. ^ 榎本雄斎『写楽―まぼろしの天才』(1969年、新人物往来社
  25. ^ 中島節子「東洲斎写楽はオランダ人だった」(『芸術公論』昭和60年5月 - 61年3月号)、福富太郎「写楽は司馬江漢+Xだ!」(『歴史読本』昭和60年12月号)。フィクションでは弘兼憲史ハロー張りネズミ』他多数。
  26. ^ 江戸方角分 - 国立国会図書館デジタルコレクション”. dl.ndl.go.jp. 2021年5月30日閲覧。
  27. ^ 朝日新聞 平成9年(1997年)7月3日夕刊紙面
  28. ^ (中野三敏 1976)。後に、中公新書『写楽』(2007年)に再編したものを掲載。
  29. ^ 中野三敏『写楽』中公新書、2007年
  30. ^ 石田泰弘「東洲斎写楽・斎藤十郎兵衛同人説への疑義」 九州藝術学会編『デアルテ:九州藝術学会誌』2019年
  31. ^ 藤井史果「栄松斎長喜:その画業と実像に迫る」 太田記念美術館編『浮世絵研究 (7)』2016年
  32. ^ 以上の確認点数は、中嶋修 2012による。
  33. ^ 松木寛 1985
  34. ^ 扇面お多福図」シカゴ美術館蔵など。
  35. ^ 小林忠 2009a, pp. 428–432、小林忠 2009b浅野秀剛 2011, pp. 6–16「写楽の肉筆扇面画」。
  36. ^ 歌舞伎事典 2011, p. 297。
  37. ^ 中嶋修 2012, p. 462。なお本著では、原本ではなく図版写真による鑑定ではあるが、写楽作品を悉皆的に精査し、第2期最初の「篠塚浦右衛門の都座口上図」以外は後世の模刻の可能性があることを指摘している。
  38. ^ 歌舞伎大事典 2012, p. 331。当項目の執筆は、岩田秀行
  39. ^ 日本語版 アダチ版画研究所
  40. ^ インターネットアーカイブ F.A. Brockhaus
  41. ^ 中山幹雄 1995, pp. 45–46
  42. ^ 内藤正人 『うき世と浮世絵』 東京大学出版会、2017年4月28日、pp.181-186、ISBN 978-4-13-083071-3。ただし、2015年に作られたリブート版『サンダーバード ARE GO』では、撤去されている。
  43. ^ 写楽:特別展 2009「ごあいさつ」。
  44. ^ 飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉1」『浮世絵芸術』第59巻、国際浮世絵学会、1979年、23-33頁、CRID 1390567901499798528doi:10.34542/ukiyoeart.555ISSN 0041-5979 
    飯島利種「井上和雄氏の資料「雨石ノート」より 写楽〈クルト〉2」『浮世絵芸術』第61巻、国際浮世絵学会、1979年、11-27頁、CRID 1390004951546390912doi:10.34542/ukiyoeart.571ISSN 00415979 
  45. ^ ユリウス・クルト著 定村忠士・蒲生順二郎訳 1994, p. 257
  46. ^ 牧野健太郎著『浮世絵の解剖図鑑』エクスナレッジ,2020, p.85
  47. ^ 岸文和「西洋近代が見た日本近世――クルトの『SHARAKU』に潜む《暴力》について――」 同志社大学人文科学研究所編集『社会科学』2002年1月68号, p.37。同論文は岸文和著『絵画行為論――浮世絵のプラグマティクス』(醍醐書房、2008年)に「寛政六年の笑い――【穴を穿つ】役者絵」と改題の上、再録されている。
  48. ^ 菅原真弓「浮世絵研究の功罪 : 近代における浮世絵受容とその波紋」『美術史論集』第18号、神戸大学美術史研究会、2018年2月、27-44(p.42)、doi:10.24546/E0041492NAID 120006496780 
  49. ^ 『決定版写楽 : 幻の絵師の正体』 写楽 : 日本史上最大の謎「写楽」に迫る、学習研究社〈歴史群像ライブラリー〉、1995年、56頁。 NCID BN12920147 
  50. ^ 中嶋修 2012, p. 241
  51. ^ 『江戸芸術論』(岩波文庫,2000年)等に収録
  52. ^ “近代デジタルライブラリー『写楽』コマ番号77
  53. ^ 佐々木幹雄『「写楽」を教えてくれたクルト-100年目の新事実-』 大好きドイツエッセイコンテスト2009優秀賞。
  54. ^ “近代デジタルライブラリー『アルス美術叢書. 第23編』コマ番号137
  55. ^ 及川茂「海外事情 最近の欧文による浮世絵研究文献 連載一」『浮世絵芸術』第156巻、国際浮世絵学会、2008年、88-89頁、CRID 1390006050800648448doi:10.34542/ukiyoeart.1505ISSN 0041-5979 
  56. ^ 『プロジェクト写楽 新説 江戸のキャラクター・ビジネス』武田ランダムハウスジャパン,2011年, p.33
  57. ^ 高井忍『東洲斎写楽「伝説」考』 『歴史研究』歴研、2019年10月号
  58. ^ 『知られざる鬼才天才』春秋社,1965, p.181
  59. ^ 瀬木慎一 2008, p. 98
  60. ^ The Japanese Print: A Historical Guide 』Weatherhill、1982年、p101
  61. ^ Toshusai Sharaku』C.E. Tuttle社、1955年
  62. ^ «Exposición de Sharaku en el Museo Nacional de Tokio» (現在リンク切れ)
  63. ^ 木村東介『女坂界隈』大西書店、1976年、38p。初出は1967年5月。
  64. ^ 霜田静志『東洋の名画』造形社、1965年、252p。
  65. ^ 三谷松悦「写楽に就て」 『浮世絵芸術』浮世絵同好会、昭和12年4月号
  66. ^ 『台東風俗文化史』東京都台東区役所、1958年、277p。
  67. ^ The Floating World』University of Hawaii Press,1954年, p.172。
  68. ^ 歌舞伎、その浮世絵に描かれた華麗な美の世界!(リンク切れ)。
  69. ^ 小林忠監修 2006, p. 84

参考文献[編集]

関連文献[編集]

画集

概説書

関連項目[編集]

外部リンク[編集]