村尾清一

村尾 清一(むらお きよかず[1]1922年[1] - )は、日本ジャーナリスト文筆家

経歴[編集]

香川県香川郡直島町生まれ。東京大学法学部政治学科卒業[1]読売新聞社に入社し、社会部記者となる[1]

1953年 中東特派員で英国エリザベス女王の戴冠式を取材。1954年3月には第五福竜丸事件のスクープ報道に関わり[2]放射性降下物について「死の灰」という造語で伝えた[3]。同年1月に、辻本芳雄(社会部次長)のもとで原子物理学に関する解説連載記事「ついに太陽をとらえた」に関わっていたことが早い初動につながったという[2]齋藤十一に起用され、創刊間もない『週刊新潮』にも関わっている[3]

読売新聞社ではその後、論説委員や取締役を務めた[1]

1981年日本記者クラブ賞受賞[1][4]

日本エッセイスト・クラブ理事長[1]

本田靖春を引き立てた人物であり、本田が尊敬する人物である。

江戸しぐさをコラム「よみうり寸評」で肯定的に紹介し、江戸しぐさ提唱者の芝三光越川禮子に引き合わせるなど、1980年代になって創作された江戸しぐさを広める役割を果たした。

著書[編集]

  • 鉛筆の芯 よみうり寸評17年 読売新聞社, 1986.11
  • 新・手紙読本 講談社, 1987.6
  • 日本人の手紙 岩波書店, 2004.2

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g 日本人の手紙 村尾 清一【著】”. 紀伊国屋書店. 2021年9月26日閲覧。
  2. ^ a b 小池新 (2021年2月28日). “「西から太陽が昇った」太平洋に降った死の灰 歯ぐきの出血に脱毛…日本人が核の恐怖を最も感じた日 「もしもあの時あの場所にいなければ…」第五福竜丸事件 #1”. 文春オンライン. 2021年9月26日閲覧。
  3. ^ a b 「週刊新潮」のタイトルが今一つになったワケ”. Bookウォッチ. j-cast (2021年3月2日). 2021年9月26日閲覧。[信頼性要検証]
  4. ^ 日本記者クラブ賞”. 日本記者クラブ. 2021年9月26日閲覧。

参考[編集]