村上秀一

村上“ポンタ”秀一
出生名 村上 秀一
別名 ポンタ村上
生誕 (1951-01-01) 1951年1月1日
出身地 日本の旗 日本兵庫県西宮市
死没 (2021-03-09) 2021年3月9日(70歳没)
学歴 大阪教育大学中退
ジャンル
職業 ドラマー
担当楽器 ドラムス
活動期間 1972年 - 2021年
共同作業者

村上 “ポンタ” 秀一(むらかみ ぽんた しゅういち、1951年1月1日 - 2021年3月9日[1])は、日本のドラム奏者。兵庫県西宮市出身。今津中学校市立西宮高校を経て、大阪教育大学中退。血液型O型。愛称はポンタさん。別名、ポンタ村上[2]

ジャズロックJ-POP歌謡曲などジャンルを問わず、国内外でセッションドラマー/スタジオ・ミュージシャンとして活動。

人物・来歴[編集]

中学時代に所属していた吹奏楽部に度々指導に来ていた指揮者朝比奈隆ティンパニを勧められ、打楽器奏者の道を歩む[3]

赤い鳥」の大村憲司の音楽性に惹かれ、1972年、21歳の時にこのバンドのドラマーのオーディションに挑戦して合格、プロデビューするとともに上京した[注釈 1]

この「赤い鳥」のオーデションについて、村上がNHKトーク番組トップランナー』で語ったところによると、オーディションは岐阜の市民会館で行われ、28人の志望者が集まり、村上の前までの7人がドラムを叩いた時にはバンドメンバーは無反応な顔つきで審査していたが、8人目の村上がドラム演奏したところバンドメンバーの顔色が変わり、「はい、皆さん、これで決まりだから気をつけて帰って下さい」と、その後に控えていた20人の志望者には演奏させず帰させた。このオーディションの際にドラム演奏させられた曲は「レット・イット・ビー」(ビートルズ)、「翼をください」(赤い鳥)他3曲だった。また、このオーディションは村上がドラムのスティックを握り始めて4日目のことだったという。

赤い鳥脱退後すぐに、エントランス(村上、大村、山村隆男(後に高水健司)を結成。赤い鳥時代に知り合った五輪真弓のバックバンドを始める。

エントランス解散後、本格的にスタジオ・ミュージシャンとして活動を始め、アニメソングから歌謡曲演歌まで幅広いジャンルの曲のレコーディングに参加。1975年頃にバンブーに参加し、同年後半にはカミーノを結成するなどセッションミュージシャンとしても活動した。

スタジオ・ミュージシャンとして活動した初期はレコード等のクレジットはメインとなる歌手の他は「レコード会社名+”楽団”」等と演奏者の名前は載らず一括りにされていたが、村上らが「俺達は名前も載らず使い捨てか?」とプロデューサー等に直談判した結果、以降はレコーディングに参加したメンバーの名前が記載されるようになったという逸話がある。

1978年、ドラムの海外修行を控えて行われた壮行コンサートの直後に、ヘロインを不法所持していたとして麻薬及び向精神薬取締法違反容疑により逮捕される。出所後は、再びスタジオ・ミュージシャンとして復帰。

1986年には渡辺香津美との全米ツアー、1987年には国際交流基金によるアフリカツアーを行った後、島健トリオ山羊智詞ソロプロジェクトを母体とした、ハードロックバンド「ザ・メーカーズ」を結成。1990年より、「山羊智詞&赤羽楽団」に参加するなど、活動の幅を広げた。練習はしない。イメトレのみ。

1998年発表の活動25周年記念アルバム『Welcome To My Life』と、2003年発表の活動30周年記念アルバム『MY PLEASURE』には、それぞれ日本を代表するアーティストがゲストとして多数参加しており、セッションドラマーとしての幅の広さを窺わせる。レコーディング数は1万4000曲を越え、日本を代表するドラム奏者とも称された[4]

様々なジャンルの楽曲を演奏してきたが、歌をいかに引き立てるかを考え、ヴォーカルの邪魔をしない演奏をすることが評価されていた。特にバラードでの評価が高く、70年代に村上を起用することが多かった山下達郎は自身の楽曲「MONDAY BLUE」を例に挙げ「ああいう曲はとにかくポンタが一番だった。バラードの表現力が、とにかく圧倒的だから」と評している[5]。80年代に村上と組むことの多かった角松敏生もバラードでの村上の表現力を絶賛し、自身のデビュー35周年コンサートで共演した後輩の玉田豊夢が村上の演奏を隣で聞いた後に「(バラードの味などは自分には)絶対無理です」と角松に言っていたことも明かしている[6]

2001年頃に体調を崩し内臓や足に問題を抱えるようになってからは酒・タバコを控えるなど以前よりも体調に気を遣うようになり[7][8]、関係者によれば新型コロナウイルスが蔓延した2020年には全ての仕事をキャンセルし外出もかかりつけの病院や散髪以外は殆どしないなど感染対策を徹底していたという[9]

2021年2月8日より脳出血の一種である視床出血により入院していたが、3月9日に死去したことが、3月15日に更新された公式サイトで明らかにされた[10]。70歳没。

PONTA BOX と 3 VIEWS[編集]

PONTA BOX」(ポンタ・ボックス)は村上が結成したバンド。一般的にジャズのカテゴリーに入る音楽だが、ポンタ自身はジャズだと考えていない。村上と佐山雅弘 (Pf) と水野正敏 (B) の3名で結成し、1994年にアルバム「PONTA BOX」を発表。以後、モントルー・ジャズ・フェスティバルに出演の他、1999年までに8枚のアルバムをリリースしている(途中でベースはバカボン鈴木に交代)。活動休止の後、2004年には若手ミュージシャンの石村順 (b)、柴田敏弥 (p & kbds)と新生PONTA BOXを結成し、「NEW PONTA BOX」をリリースした。PONTA BOXのアルバムは、愛称の“ポンタ”に因んで、タヌキの顔のイラスト(杉浦茂の「八百八だぬき」のもの)がトレードマークとなっている。

一方、2000年には佐山雅弘と村田陽一 (Tb) の3人でオリジナルレーベル「3 VIEWS」を設立。3人でのアルバム制作の他、相互のソロ活動に参加するなどしている。2000年以後はPONTA BOXも3 VIEWSからのリリースとなっている。

1999年にPONTA BOXとして『FNNスーパーニュース』のテーマ曲の作曲をした(1999年度)。曲名は『Wandering Stella (Love Circle)』。

ディスコグラフィ[編集]

ソロアルバム、リーダーアルバム及び、スタジオミュージシャンではなくバンドメンバーとして参加した作品を掲載。

リーダーアルバム[編集]

  • 驚異のパーカッション・サウンド!! INTRODUCING "PONTA" MURAKAMI(1976年)
  • Tokyo Fusion Night(1978年)
  • PADANG RUMPUT(1982年)
  • Welcome to My Life(1998年9月30日)
  • MY PLEASURE(2003年12月3日)
  • リズム・デザイナー(2006年7月26日)
  • うたポン(2006年9月21日) - ドラマーとして参加した曲を集めたコンピレーションアルバム
  • うたポン2(2008年11月26日) - ドラマーとして参加した曲を集めたコンピレーションアルバム
  • リズム・モンスター(2012年12月19日)

赤い鳥[編集]

  • 美しい星(1972年1月6日)
  • 祈り(1973年6月20日)

NOBUYUKI, PONTA UNIT[編集]

  • THE RHYTHM BOXER(1985年)

PONTA BOX[編集]

  • PONTA BOX(1994年5月21日)
  • PONTA BOX 2 Dessert in the Desert(1995年5月24日)
  • THE ONE(1997年2月21日)
  • モダン・ジュズ(1997年10月22日)
  • ポンタ・ボックス・ザ・ベスト 1994-1998(1998年9月23日)
  • PONTA BOX meets YOSHIDA MINAKO(1998年12月19日)
  • THE NEW FRONTIER(1999年9月8日)
  • NYPB(2001年8月22日)
  • GOSH(2002年2月21日) - ヴォーカルに吉田美奈子を迎えた第2弾
  • NEW PONTA BOX(2005年5月21日)

3 Views Producers[編集]

  • 3 VIEWS(2000年11月8日)

村上“ポンタ”秀一&近藤房之助[編集]

  • A BIG TRAIN COMING(2003年10月22日)
  • HERE WE GO AGAIN(2005年4月21日)

NY PONTA BOX[編集]

  • RIOT OF DREAMS(2004年11月21日)

CAMINO[編集]

  • LIVE 1976(2004年11月18日)

中牟礼貞則&村上“ポンタ”秀一オールスターズ[編集]

  • We Love MURE san(2012年3月14日)

TRIPLE BOND[編集]

  • TRIPLE BOND(2013年7月5日)

主な参加作品[編集]

あ行[編集]

か行[編集]

さ行[編集]

た行[編集]

な行[編集]

は行[編集]

ま行[編集]

や行[編集]

  • 八神純子
  • 矢沢永吉
  • 山下達郎
    • SPACY』(1977年6月25日 (1977-06-25)
    • IT'S A POPPIN' TIME』(1978年5月25日 (1978-05-25)
    • GO AHEAD!』(1978年12月20日 (1978-12-20)
      • 「MONDAY BLUE(マンデイ・ブルー)」
    • MOONGLOW』(1979年10月21日 (1979-10-21)
      • 「STORM(ストーム)」
      • 「TOUCH ME LIGHTLY(タッチ・ミー・ライトリー)」
  • 山下洋輔
    • 「寿限無 山下洋輔の世界 Vol.2 (A Figure of Yosuke Yamashita Vol.2)」
    • 「Live and Then-Piccasso」
  • 雪村いづみ
    • I'm a Singer』(1994年4月8日 (1994-04-08)
      • 「ふたつの FALL IN LOVE」
  • 吉田美奈子
    • MINAKO』(1975年10月25日 (1975-10-25)
    • 『MINAKO II –Live at Sun Plaza Hall October 3,1975–』(1975年12月20日 (1975-12-20)
    • FLAPPER』(1976年3月25日 (1976-03-25)
      • 「朝は君に (ASA WA KIMI NI)」
      • 「ケッペキにいさん (KEPPEKI NIISAN)」
      • 「チョッカイ (CHOKKAI)」
      • 「永遠に (EIEN NI)」
    • TWILIGHT ZONE』(1977年3月25日 (1977-03-25)
    • 恋は流星 (PartI・II)」(1977年3月25日 (1977-03-25)
      • 「恋は流星 SHOOTING STAR OF LOVE Part I」
      • 「恋は流星 SHOOTING STAR OF LOVE Part II」
    • 『TRIM YOSHIDA MINAKO & KAWAI DAISUKE meets MURAKAMI“PONTA”SHUICHI & NUMAZAWA TAKASHI』(2013年3月 (2013-03)

わ行[編集]

その他[編集]

主な出演[編集]

ライブ[編集]

テレビ番組[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 村上は赤い鳥自体にはさほど興味が無く、ギタリストの大村憲司に興味があったという。『自暴自伝』p.27

出典[編集]

  1. ^ 訃報”. PONTA SupporTeamStaff. 2021年3月15日閲覧。
  2. ^ 『脅威のパーカッション・サウンド!!』などに表記されている名義。
  3. ^ 『俺が叩いた。ポンタ、70年代名盤を語る』
  4. ^ 村上“ポンタ”秀一さん死去 70歳 日本を代表する名ドラマー” (2021年3月15日). 2021年3月15日閲覧。
  5. ^ 真保 みゆき (2021年4月11日). “「演奏のタイム感が本当にジャストなんですよ」山下達郎が初めて語ったドラマー・村上“ポンタ”秀一 山下達郎ロングインタビュー#2”. p. 5. 2024年3月2日閲覧。
  6. ^ 田中久勝 (2016年10月15日). “【インタビュー】角松敏生 “音の匠”が語るライヴ作りの流儀、6時間ライヴの裏側”. 2024年3月2日閲覧。
  7. ^ 「シュガー・ベイブの後、なぜポンタにドラムを頼んだか」山下達郎が初めて語った戦友・村上“ポンタ”秀一” (2021年4月11日). 2023年10月16日閲覧。
  8. ^ 村上“ポンタ”秀一さん死去 泉谷しげる思い出語る「酒に女に…度を超えて自由でした」” (2021年3月16日). 2023年10月16日閲覧。
  9. ^ 訃報 村上ポンタ秀一” (2021年3月15日). 2023年10月16日閲覧。
  10. ^ ドラマーの村上“ポンタ”秀一さん死去 世代やジャンル超え、惜しむ声相次ぐ「色んな村上さんがいるんだね」” (2021年3月15日). 2021年3月15日閲覧。

外部リンク[編集]