杉本光作

杉本 光作(すぎもと こうさく、1907年 - 1980年12月)は、昭和期の登山家。栃木県出身。

1922年(15歳の時)に男体山に登ったことをきっかけに登山に関心を持つ[1]。その後、東京の日本橋にある薬品卸売業の会社に入り、後に独立した[2]

1929年東京登歩渓流会の結成メンバーになり、1933年に本格的な山岳団体に組織替えにするに従って中心メンバーの1人として活躍するようになる[3][4]

谷川岳の登攀及び研究に力を注ぎ、多くの登攀記録を持つほか、社会人山岳団体の地位向上に尽くした[4]

1941年に召集されて満州に送られ、一時期関東軍の要請でスキー指導を行っていた時期もあったが、太平洋戦争が長期化するとカロリン諸島などに移動し、ヤップ島で終戦を迎えた[5]

戦後も活動を続け、遭難事故対策にも尽力している[4]。1980年に唯一の著作になる『私の山 谷川岳』の原稿を完成させた直後に急逝した[6]

脚注[編集]

  1. ^ 杉本、1983年、P13-18.
  2. ^ 杉本、1983年、P38・348.
  3. ^ 杉本、1983年、P206-207.
  4. ^ a b c 徳久球雄『岳人事典』「杉本光作」P.137.
  5. ^ 杉本、1983年、P174-175.
  6. ^ 杉本、1983年、P7-9.(小島六郎による序文)

参考文献[編集]

  • 徳久球雄「三田幸夫」徳久球雄 編『岳人事典』(東京新聞出版、1983年) ISBN 978-4-808-30148-4 P137.
  • 杉本光作『私の山 谷川岳』中央公論社(中公文庫)、1983年(原著は1981年刊)

関連項目[編集]

  • 風雪のビバーク-東京登歩渓流会による松濤明の追悼記念誌であったが、後に松濤の遺稿を加えて商業出版化された。商業出版時の編集を杉本が担当した。