本山文平

本山文平

本山 文平(もとやま ぶんぺい、1882年4月 - 1980年9月13日)は、大正時代から昭和時代にかけての日本統治時代の台湾及び日本官僚

略歴[編集]

新潟県出身。第一高等学校を経て、1910年東京帝国大学法科大学を卒業。台湾総督府に入り専売局属となる。1912年11月、文官高等試験行政科試験に合格。

1924年の奉令で常吉徳寿の後を引き継いで台湾台中州知事となった。管轄は、現在の台中市台中市彰化県南投県などの地区。1926年10月、警務局長に転じ、1928年7月まで在任した。

後に内地に戻り、1929年には大分県知事に任命され、翌1930年には熊本県知事に転任した。1931年12月18日に休職[1]1932年1月29日、依願免本官となり退官した[2]

1936年台湾青果株式会社取締役社長に就任し、1943年、台湾総督府評議会員となる。

戦後は城南青果光製薬妙高林産に勤務[3]

家族[3][編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第1493号、昭和6年12月19日。
  2. ^ 『官報』第1523号、昭和7年1月30日。
  3. ^ a b 『人事興信録』第15版下、モ4頁。

参考文献[編集]

  • 劉寧顔著《重修台湾省通志》、台北市、台湾省文献委員会、1994年。
  • 岡本真希子『植民地官僚の政治史 - 朝鮮・台湾総督府と帝国日本』三元社、2008年、442-443頁。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年、202頁。