木村友衛

木村 友衛(きむら ともえ)は、浪曲名跡である。

初代[編集]

木村友衛(1900年9月6日 - 1977年11月5日)は浪曲師である。本名は高木民蔵。

横浜長者町出身。幼少の頃から芸事が好きで、11歳の時に寄席・横浜寿亭の木村重友を生で見て感銘を受ける。そこで一席即興で浪曲を披露した(声調べ)ところ、重友に気に入られ弟子となり友衛の名を貰う。3日後の12歳で初舞台を踏む。1914年に師匠とともに渡米、1915年に真打昇進というスピード出世で、3ヵ月後には寄席を3軒掛け持ちするほど人気を得た。得意ネタは師匠譲りの関東節に独自の節調と豊かな声量・哀感で「塩原多助」「天保六花撰河内山宗俊)」などを得意とした。

1940年日本浪曲協会の初代会長、一旦会長を退き1948年に再び会長になったが喉を痛め、1953年に明治座で引退興行を行った。引退後あまり喉を酷使しない講談に挑戦したこともあった。後に勲四等瑞宝章受章。

木村若友木村若衛、力衛、隆衛など多数の数の弟子がいる。

2代目[編集]

木村友衛(1940年7月17日 - )は日本の浪曲師歌手である。本名は中里近衛。

経歴[編集]

東京都浅草出身。両親が浪曲師だった関係で6歳の時に「紀伊国屋文左衛門」で初舞台を踏む。戦時中山形に疎開、少女浪曲師として地方に回る、1957年(昭和32年)、上京。1955年(昭和30年)、に上京、1966年(昭和41年)、NHKの歌手オーディションに合格し、中里このえとして歌手デビュー。1974年(昭和49年)、2代目木村友衛を襲名。1981年(昭和56年)、作詞家・藤田まさとに直訴して発売した「浪花節だよ人生は」が、1984年(昭和59年)頃になって大ヒットする。その年にジャケット写真違いで新たに再発売した。この曲はシングルオリコンチャート4位まで上昇するなどおよそ50万枚を売り上げ、数々の賞を受賞した。同曲は細川たかし水前寺清子カバーしている。

1984年(昭和59年)、第26回日本レコード大賞特別賞、全日本有線放送大賞特別賞、日本有線大賞有線音楽賞受賞。

1985年(昭和60年)、メガロポリス歌謡祭特別賞受賞。

ディスコグラフィー (シングル)[編集]

[中里このえ・テイチクレコード]

  • 妻恋い渡り鳥/夢をみなされ
  • 義商一代 天野屋利兵衛/皆さんお体大切に
  • 大石東下り/一世一代

[天津このえ・ローヤルレコード]

  • おんな仁義/人情流れ雲

[鼓このえ・東宝レコード]

  • 平清盛(神輿振りの段)/運命/明日に希望を
  • 花の牛若/鞍馬の風雲児/花の若武者

[木村友衛・ビクターレコード]

  • 浪花節だよ人生は/人生一人ぼっち
  • 恋人生/世間さまよ
  • 母の子守唄/博多夜桜
  • 馬鹿は死ななきゃなおらない〜昭和石松伝〜/人生花火
  • 歳月の祈り/酒情話

[木村友衛・テイチクレコード]

  • 男の手締め/聞いて下さい皆さまよ

[木村友衛・バップレコード]

  • 花の都会/わすれ酒

[木村友衛・ビクターレコード]

  • 冠雪/夢追い舟

[木村友衛・バップレコード]

  • 愛染川/大安吉日

[木村友衛・徳間ジャパン]

  • 湯島しぐれ/棟梁一代

[木村友衛・日本エンカフォン]

  • 人生ひとりじゃいきられぬ/むすめ浪曲師
  • ~日本人の願い北方領土返還の歌~歳月の祈り/歳月の祈り(浪曲入りバージョン)

委託盤[編集]

[中里近衛・エオリック]

  • 小伝馬町音頭 (佐々木章 中里近衛)/カラオケ

[中里このえ・テイチクレコード]

  • 渋谷ブルース (相馬宏之)/渋谷おどり (山田実 中里このえ)

[月笛このえ・ソノシート]

  • 法華経寺音頭

[中里このえ・ビクターレコード]

  • 御宿囃し

[木村友衛・ビクターレコード]

  • 夫婦劇場/なみだ酒

テレビ番組[編集]

外部リンク[編集]