日本橋きみ栄

日本橋 きみ栄
日本橋きみ栄
基本情報
出生名 荒井 きよ子
生誕 (1915-01-27) 1915年1月27日
出身地 日本の旗 日本
死没 (1993-10-09) 1993年10月9日(78歳没)
ジャンル 小唄
職業 歌手
担当楽器
活動期間 1934年 - 1993年
レーベル ニットーレコード
ポリドール・レコード
日本ビクター
キングレコード

日本橋 きみ栄(にほんばし きみえ、1915年大正4年)1月27日 - 1993年平成5年)10月9日)は、日本芸者歌手

経歴[編集]

本名は荒井 きよ子。大正8年(1919年)、東京都神田で生まれ、チャキチャキの江戸っ子として育ち、5歳の頃から兄の竹本東太夫に義太夫を仕込まれた。17歳で日本橋槇町から芸者に出るとすぐさま売れっ妓になり、折からの鶯芸者ブームで、1934年(昭和9年)ニットーレコードからデビュー。ビクターの市丸小唄勝太郎、コロムビアの音丸豆千代藤本二三吉赤坂小梅、ポリドールの浅草〆香新橋喜代三テイチク美ち奴らと並んで活躍する。その後作曲家などに勧められたポリドールのテストに合格し、昭和10年(1935年)4月、『元禄くづし』で専属デビュー。翌昭和11年(1936年)に『浮名くづし』がヒット、昭和12年(1937年)には『蛇の目のかげで』などが大ヒット。他の曲には『お夏狂乱』『五月雨傘』『島の夕波』などがある。戦争が始まると他歌手と同じようにレコード活動も減ったが、そんな中でも『国策母さん』や『興亜の春風』といった軍事歌謡を発売し、慰問活動にも従じた。

戦後もポリドールに残り、1948年(昭和23年)11月には各社競作の『炭坑節』が大ヒットしたことで「炭坑節のきみ栄」と称され、『常磐炭坑節』『新炭坑節』といった炭坑節シリーズがヒット。1950年(昭和25年)にもテイチクの美ち奴と競作になった『ソーラン節』をヒット。それからしばらくは全国のキャバレーや劇場で流行歌手として東へ西への巡業が続いたが、「いつまでもこんなことをしていては、今に売れなくなって惨めな思いをする」と思い、邦楽の家元に落ち着いた。昭和30年代からは小唄端唄俗謡といった邦楽を専門に活動するようになり、キングレコードを経て、昭和33年(1958年)1月、『奴さん』や『木遣りくずし』で日本ビクターに移籍。同年には代表曲の『炭坑節』も新吹き込みしている。弟子をとり、後進の育成に精進する傍ら、昭和40年(1965年)頃からのなつメロブームの時期には、テレビ東京のなつメロ番組にも出演し、『蛇の目のかげで』や『浮名くづし』などの往年のヒット曲を披露している。

1971年(昭和46年)には三井名人会で披露した妙芸として名高い自作曲『見世物小屋』で芸術祭に参加、見事に芸術祭賞優秀賞を受賞。昭和50年(1975年)には山田五十鈴主演の舞台『たぬき』の音曲を担当し、これまた芸術祭大賞文部大臣賞を受賞。同年古巣のポリドールレコードに復帰し、3年がかりの録音で昭和54年(1979年)、LP10枚に及ぶ『これが端唄だ俗曲だ日本橋きみ栄大全集』160曲を完成発売した。1992年秋頃から体調を崩し、翌1993年1月には端唄の家元を退く。1993年(平成5年)10月9日急性心不全で死去、78歳だった。

代表曲[編集]

その他、数多くの端唄、小唄、俗謡がある。