押本七之輔

おしもと しちのすけ
押本 七之輔
本名 押本 七之助
別名義 押本 七乃輔
生年月日 1899年
没年月日 1970年8月18日
出生地 日本の旗 日本 東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区
職業 映画監督脚本家映画プロデューサー、元俳優
ジャンル 劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1920年 - 1957年
主な作品
安政異聞録 浄魂
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押本 七之輔(おしもと しちのすけ、1899年 - 1970年8月18日)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサー、元俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。本名および旧筆名押本 七之助、のちに押本 七乃輔とも表記した[4][5][6][8]市川右太衛門プロダクション設立第1作の監督に抜擢されたことで知られる[1]

人物・来歴[編集]

1899年明治32年)、東京府豊多摩郡渋谷村(現在の東京都渋谷区)に生まれる[1][3]。『映画年鑑 1973』の「映画人物故録」には「68歳没」との記述があり、1902年(明治35年)前後の生まれの可能性がある[2]

学歴等は伝えられていないが、満21歳となる1920年(大正9年)、国際活映に入社している[1]。同年、すぐに同社を退社して仁科熊彦らとともに映画の制作プロダクションに参加、奈良での撮影に携わったものの、同社が解散したため、東京に戻る[1]。同年10月に創設され東京市本郷区春木町(現在の東京都文京区本郷3丁目)にあった松竹キネマ研究所に入り、小山内薫の指導を受けたという[1]。同研究所は1921年(大正10年)8月に解散しているが[1]、前年の12月15日に公開された松竹蒲田撮影所製作、田中欽之監督による『鉱山の秘密』に「刑事 泉弥太郎」役で俳優として出演した記録が残っている[4]。その後の5年間の経歴については不明であるが、1925年(大正14年)に社会教育映画研究所が製作、内田吐夢が監督した『少年美談 清き心』で、美術を手がけた記録が残っている[9]

1926年(大正15年)10月に帝国キネマ演芸(帝キネ)に入社、兵庫県武庫郡精道村大字芦屋(現在の同県芦屋市)の帝国キネマ芦屋撮影所に所属し、同年12月1日に公開された市川百々之助主演による映画『侠客』を監督している[1][4][5]。1927年(昭和2年)には、奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に新設された市川右太衛門プロダクションのあやめ池撮影所に移籍、同社設立第1作『安政異聞録 浄魂』を初めとして、市川右太衛門の主演映画を監督する[1][4][5]。同年のうちに京都のマキノ・プロダクションに移籍、翌1928年(昭和3年)1月15日に公開された片岡千恵蔵の主演映画『三日大名』を監督している[1][4][5]。1929年(昭和4年)7月25日、牧野省三が亡くなり、マキノ正博による新体制において8作を監督したが、1930年(昭和5年)4月をもって同社を退社、帝国キネマ演芸に復帰した[1][4][5]

帝キネは、1931年(昭和6年)8月28日に改組されて新興キネマとなり、帝キネの太秦撮影所を当初、同社の唯一の製作拠点としてもち、押本はこれに継続的に所属した[1][4][5]。1932年(昭和7年)3月 - 1933年(昭和8年)5月の間は、同社と提携関係にあった尾上菊太郎尾上菊太郎プロダクションで、菊太郎の主演作を監督した[1][4][5]。1942年(昭和17年)1月10日、第二次世界大戦による戦時統合によって同社が合併し、大映を形成すると、押本は大映に継続入社した[4][5]。1943年(昭和18年)1月8日に公開された羅門光三郎の主演作『虚無僧系図』が、最後の監督作となった[1][4][5]

戦後は、1951年(昭和26年)や1953年(昭和28年)の大映京都撮影所にその名が見当たらない[10]。その後、1956年(昭和31年)から翌年にかけて、松竹上方演芸京都映画の3社提携による映画を3作、製作している記録がある[4][5][7]。以降、その間の消息は不明であるが、1970年(昭和45年)8月18日、死去した[2]。満71歳没(満68歳没説あり[2])。

初期に「押本映治(1900年 - 1946年)の実兄」説が流れ、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』(映画世界社)の両名の項目にもその旨の記述がされたが[11]、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』(同)では「押本映治」の項で「押本七之助を兄に持つはあやまりである」と否定している[12]。現在では『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)でもこの件は言及されていない[1]

フィルモグラフィ[編集]

淨魂』(1927年)の現存するカット。
『淨魂』公開時のポスター。押本の名が確認できる。

クレジットは特筆以外すべて「監督」である[4][5]。公開日の右側には監督を含む監督以外のクレジットがなされた場合の職名[4][5]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

初期[編集]

すべてサイレント映画、「押本七之助」名義である[4][5]

帝国キネマ芦屋撮影所[編集]

すべて製作は「帝国キネマ芦屋撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画、「押本七之助」名義である[4][5]

  • 侠客』 : 原作・脚本曾我正史、主演市川百々之助、1926年12月1日公開
  • 血桜 前篇』 : 原作仲側紅果、脚本小国比沙志、主演市川百々之助、1927年2月9日公開 - 監督、前後篇のうち1分の断片が現存(NFC所蔵[8]
  • 血桜 後篇』 : 原作仲側紅果、脚本小国比沙志、主演市川百々之助、1927年2月15日公開 - 監督、同上[8]
  • 怪人』 : 脚本小国ひさし(小国比沙志)、主演市川百々之助、1927年4月2日公開
  • 敵討 前後篇』 : 原作・脚本小国比沙志、主演市川百々之助、1927年4月29日公開

市川右太衛門プロダクション[編集]

すべて製作は「市川右太衛門プロダクションあやめ池撮影所」、すべてサイレント映画、「押本七之助」名義である[4][5]

マキノ御室撮影所[編集]

すべて製作は「マキノ御室撮影所」、配給は「マキノ・プロダクション」、すべてサイレント映画、特筆以外は「押本七之助」名義である[4][5]

帝国キネマ[編集]

特筆以外すべて製作は「帝国キネマ太秦撮影所」、配給は「帝国キネマ演芸」、すべてサイレント映画、特筆以外「押本七之助」名義である[4][5]

新興キネマ[編集]

特筆以外すべて製作・配給は「新興キネマ」、すべてサイレント映画、特筆以外「押本七之助」名義である[4][5]

新興キネマ京都撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「新興キネマ京都撮影所」、配給は「新興キネマ」、特筆以外はトーキー、「押本七之輔」名義である[4][5]

大映[編集]

以降すべてトーキー、「押本七之輔」名義である[4][5]

松竹[編集]

すべて製作は「松竹上方演芸京都映画」の3社提携、配給は松竹、「押本七之輔」名義である[4][5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o キネマ旬報社[1980], p.102.
  2. ^ a b c d 年鑑[1973], p.126.
  3. ^ a b 押本七之輔jlogos.com, エア、2013年4月3日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x 押本七乃輔日本映画データベース、2013年4月3日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap 押本七之輔押本七之助押本七乃輔、日本映画情報システム、文化庁、2013年4月3日閲覧。
  6. ^ a b 押本七乃輔日本映画製作者連盟、2013年4月3日閲覧。
  7. ^ a b 押本七之輔KINENOTE、2013年4月3日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k 押本七之輔押本七之助押本七乃輔東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月3日閲覧。
  9. ^ a b c d e プラネット映画資料図書館共同復元作品、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月3日閲覧。
  10. ^ 大映京撮スタッフ紹介立命館大学、2013年4月3日閲覧。
  11. ^ 映画世界社[1928], p.31, 133.
  12. ^ 映画世界社[1930], p.38.
  13. ^ 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年4月3日閲覧。
  14. ^ ちゃんばら時代、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年4月3日閲覧。
  15. ^ 第653回無声映画鑑賞会、マツダ映画社、2013年4月3日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]