後高句麗

後高句麗
泰封
태봉

901年–918年
後高句麗の位置
915年頃の後高句麗(泰封)
首都 松嶽 (901年 – 905年)
鉄円 (905年 – 918年)
言語 高句麗語
宗教 仏教
儒教
道教
巫俗
政府 君主制
国王
 •  901年 – 918年 弓裔
歴史
 •  建国 901年
 •  滅亡 918年
現在 朝鮮民主主義人民共和国の旗 北朝鮮
大韓民国の旗 韓国
中華人民共和国の旗 中国
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代朝鮮語版
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府

668-756
渤海
698
-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901
-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

後高句麗(ごこうくり/こうこくくり、899年 - 918年)は、後三国時代新羅で叛乱を起こした弓裔901年高句麗の復興を唱えて、国号を高句麗と定めたことにちなむが、挙兵から滅亡までの弓裔政権全体を指すことが多い。

歴史[編集]

弓裔は、899年の挙兵当時、自分が新羅第48代景文王庶子であることを自称し、901年には、松嶽(開城)に遷都して国号高句麗と定めた。904年には正式な国号を摩震(摩訶震旦の略)に改め、年号を武泰と定めて国家体制を整備する。更に905年には鉄円に遷都し、911年には国号を泰封(たいふう)に改め、年号を水徳万歳と定めた。

後高句麗は、独自の年号官制を定めるなどし、新羅や後百済に対して優勢を占めており、弓裔は自らを弥勒菩薩と自称し仏教神秘性を利用して権威を高めようとしたが、しだいに暴君化して部下の反発を買うようになり、918年に最も有力な部下であった王建の革命により王位を奪われて逃亡中に殺された。

後高句麗は消滅したが、王建が名づけた国号「高麗」は高句麗の別称であり(正式名称ともいう)、高麗は高句麗の再興を目指す後高句麗の後継国家といえる。しかし、矢木毅は、王建は朝鮮統一のために女真人から安定的にを入手する必要があり、女真人の馬の貢納を促すために高句麗継承を標榜したのであり、高句麗継承意識は高麗だけではなく、渤海人や女真人にも継承され、「国初以来の『北進政策』によって、高麗の領域はひとまず鴨緑江下流域にまで北上したが、それは当時の渤海人・女真人の目からみれば、あくまでも『新羅』が高句麗の旧領を侵蝕していく過程にすぎなかったのである」と指摘している[1]

政教[編集]

前代の新羅と同じく、仏教が重要視された。また、国王の弓裔も自らを民衆を導く救世主「弥勒菩薩の化身」と称し、仏教神秘性を利用して権威を高めようとした。もともと、弓裔は新羅国の王子でありながら王室から見捨てられ、家を出てから世達寺(現在の江原特別自治道寧越郡にあったと推定されている)に入り、僧侶になって善宗と称した経験があるため、自らは仏教の興隆に熱心であったとされている。例えば、仏教の一部の法律を改正させたりした。

文化[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 中野耕太書評 矢木毅著『韓国・朝鮮史の系譜 : 民族意識・領域意識の変遷をたどる』」『北東アジア研究』第25号、島根県立大学北東アジア地域研究センター、2014年3月、127頁、ISSN 1346-3810NAID 120005710661 
    矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜 : 民族意識・領域意識の変遷をたどる』塙書房塙選書 111〉、2012年。ISBN 9784827331110NCID BB08812882全国書誌番号:22086262 

関連項目[編集]