後藤宙外

後藤 宙外
(ごとう ちゅうがい)
後藤宙外
誕生 後藤寅之助
1867年1月27日
日本の旗 日本出羽国仙北郡払田村
死没 (1938-06-12) 1938年6月12日(71歳没)
日本の旗 日本福島県北会津郡湊村
墓地 秋田県大仙市
職業 小説家評論家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京専門学校
ジャンル 小説
文学活動 深刻小説・社会小説・硯友社
代表作 『ありのすさび』(1895年)
『明治文壇回顧録』(1933年~1935年)
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後藤 宙外(ごとう ちゅうがい、1867年1月27日[注釈 1]慶応2年12月22日[注釈 2][1][2]) - 1938年昭和13年)6月12日)は、明治後期から昭和初期に活躍した小説家評論家。本名寅之助。

生涯[編集]

後藤三郎右衛門、斎藤サダ(花館村の斎藤勘左衛門の妹[3][4]の次男として生まれる。宙外の家家は後藤家の惣家[3]とされる。なお、戸籍上の誕生日は慶応2年12月22日だが、宙外自身は12月23日、12月24日の二様に記述している[注釈 3]。後藤家は元豪族の旧家であったが、父の代に没落していた[5]1879年(明治12年)、遊学のため兄と上京するが明治19年(1886年)に帰郷[注釈 4]1889年(明治22年)再上京し、東京専門学校(現早稲田大学)専修英語科に入学。その後文学科に転じ、卒業論文に山田美妙尾崎紅葉幸田露伴を論じる[6][注釈 5]1894年(明治27年)に卒業後は、坪内逍遙の推挽により「早稲田文学」彙報欄の記者となり[注釈 6][7]1895年(明治28年)、「早稲田文学」に『ありのすさび』を発表して文壇デビューを果たした。1897年(明治30年)に島村抱月小杉天外伊原青々園水谷不倒と共に「丁酉文社(ていゆうぶんしゃ)」を結成、「新著月刊」を刊行し[8]、評論集『風雲集』を共著した。

1900年(明治33年)、春陽堂に入社し、「新小説」編集主任となる。1901年(明治34年)5月、田園文学の実践として福島県北会津郡猪苗代湖畔に家を建て、そこから月に1週間ほど上京して編集の事務にあたるという生活を、1907年(明治40年)10月鎌倉に移り住むまで続けた[9]。「新小説」には正宗白鳥の『寂寞』、夏目漱石の『草枕』、田山花袋の『蒲団』、岩野泡鳴の『耽溺』などの問題作が掲載された。

作家としては、明治30年代前半(1900年前後)あたりから、尾崎紅葉、泉鏡花らとの親交を深め[10]、『ありのすさび』のような《深刻小説》や、政治小説『腐肉団』(1899年/明治32年)などの《社会小説》傾向の作風から[11]硯友社風の作風に転じ、言文一致による写実文学の潮流には最後まで与しなかった[注釈 7]

1907年(明治40年)、田山花袋が『蒲団』を発表すると、『非自然主義』(1908年/明治41年9月15日)を書いて反自然主義の立場を取る。1909年(明治42年)1月、鎌倉から東京市芝区へ転居後、同年2月より「寸鉄」という欄を「新小説」に設けて反自然主義の旗印を掲げ、同年4月には泉鏡花や登張竹風笹川臨風らと「文芸革新会」を結成[12][13]、各地で講演会を催したが[注釈 8]、時代の流れに逆らうにとどまった[注釈 9][14]1910年(明治43年)、春陽堂を退社してのちは、次第に文壇から遠ざかった。

1914年(大正3年)5月に秋田時事社長として秋田に赴任、秋田市保戸野に居住、翌1915年(大正4年)4月、同社の社長を辞任し、仙北郡六郷町大町に移り住んだ。のちに本籍地もこの場所とした[3]

昭和11年頃の宙外

1919年(大正8年)春には推挙されて六郷町長に就任し、2期8年務めた[注釈 10]。この間、東北地方の考古学史学の研究に没頭し、払田柵跡に注目、調査研究につとめる。1929年(昭和4年)から翌年にかけて『仙北郡高梨村拂田柵址略図』を作成した[注釈 11]

1938年(昭和13年)6月12日、福島県北会津郡湊村(現・会津若松市)の猪苗代湖畔の別荘で脳卒中により死去。戒名は香雲院釈宙外[15]

家族[編集]

  • 父・三郎右衛門
  • 母・斎藤サダ
  • 兄(大正六年五月北海道で死去[3]
  • 後妻・ヤス(茂又敬吉の妹[3]
    • 宙外の次女・実子
    • 後藤稜次郎(実子の夫)

エピソード[編集]

  • 宙外の死後、後藤家は二女の実子の婿である稜次郎が継いだ[16]。稜次郎の生家は、十三軒ある後藤家の分家の内で、最も新しく幕末の頃に分れた家で、本家没落当時は後見をしていたことがある[3]

文学者としての宙外[編集]

文学者としての宙外の活動は概ね、以下の3期に分けられる。

  1. 家庭小説『ありのすさび』で文壇デビューを果たしたのち、政治小説『腐肉団』発表するまでの1895年から1900年までの時期。この間、宙外は『闇のうつゝ』『誰が罪』『思ひざめ』などを発表して注目され、その一方で「新著月刊」を編集し、森鷗外との「性格論争」をふくむ活発な評論活動を展開した[17]
  2. 春陽堂に入社後、猪苗代湖畔に暮らしながら創作活動をつづけ、編集に従事した1900年ごろから自然主義興隆の1907年ごろまで。この時期はいわば「硯友社の客将」とみなされ、泉鏡花、国木田独歩徳田秋声らの作品を紹介する一方、薄田泣菫や正宗白鳥らの新人を発掘して「新小説」黄金時代をもたらした[17]。一方ではみずから晩年に著した『明治文壇回顧録』で述べるように「思想惑乱の時代」でもあって、創作上の限界を感じていた時期にあたる。東京専門学校時代からの学友で文学上のライバルでもあった島村抱月を強く意識した[17]
  3. 反自然主義を唱えてから春陽堂退社までの1907年ごろから1910年暮れまでの時期。ヨーロッパ留学から帰国した抱月に対して羨望と劣等感を感じながら、性格の違いもあって硯友社文学の生き残りのような状況を呈していた。こののち小説は散発的にしか書かなくなり、春陽堂退社をもって事実上の文壇引退とみなすことができる[17]

主な作品[編集]

  • 『ありのすさび』 「早稲田文学」明治28年(1895年)5月 - 10月。
  • 『闇のうつゝ/狂美人』 「新小説」第4号、明治30年(1897年)9月、春陽堂。
  • 『腐肉団』 「時事新報」明治32年(1899年)6月 - 8月。明治33年(1900年)7月、春陽堂 刊。
  • 『思ひざめ』 明治30年(1897年)12月、東華堂。
  • 『新機軸』 明治31年(1898年)12月、春陽堂。
  • 『非自然主義』 明治41年(1908年)9月、春陽堂。
  • 『明治文壇回顧録』 「芸術殿」昭和8年(1933年) - 昭和10年(1935年)。昭和11年(1936年)5月、岡倉書房 刊。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 宙外の戸籍上の生年月日(慶応2年12月22日)をウィキペディア「慶応」に依って西暦換算すると、慶応2年12月1日はグレゴリオ暦1867年1月6日にあたるため、それに21を足して1月27日となる。
  2. ^ 「明治十九年に宙外が覚え書として書いている自叙略伝によれば(中略)慶応二年寅の十二月二十四日に生る故をもって通称虎之助と言う。(中略)とある。誕生日の日は戸籍には十二月二十二日とあり、また昭和十一年に史蹟保存の功労者として文部大臣から表彰を受けた時の履歴書には、自ら二十三日と書いているが、伝えるところでは家例の媒払いの日であったとか、すれば二十四日が正しいであろう。」(後藤 1967年、p.49)。
  3. ^ 後藤 1967年、p.49。
  4. ^ 日本近代文学大事典 1984、p.599。
  5. ^ 論文表題は「散文詩の精髄を論じて美妙、紅葉、露伴の三作家に及ぶ」(後藤 1967年、p.51)。のちに逍遙の推薦により、序論と美妙論を梗概化し、後半の紅葉、露伴論を中心に「美妙、紅葉、露伴の三作家を評す」として「早稲田文学」に掲載し、明治33年、『風雲集』(島村抱月、後藤宙外、伊原青々園 共著。春陽堂)に収録された(畑 1970、pp.25-26)。
  6. ^ 村松 1970、p.41。
  7. ^ 畑 1970年、p.33。
  8. ^ 「東京、浜松、宇都宮、宇治山田、三重、名古屋で講演会を催したりした」(村松 1970、p.41)。
  9. ^ 千葉 1980、p.63。
  10. ^ 千葉 1980、pp.127-132、後藤宙外年譜(後藤稜次郎 作成)。
  11. ^ 千葉 1980、p.99。実物図版。

出典[編集]

  1. ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)pp.49-53。
  2. ^ 井上隆明監修、塩谷順耳ほか編『秋田人名大事典』(第2版)秋田魁新報社、2000年、p.228頁。ISBN 4-87020-206-9 
  3. ^ a b c d e f 人・その思想と生涯(21)”. あきた(通巻65号) (1967年10月1日). 2021年9月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月2日閲覧。
  4. ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)p.49-53
  5. ^ 日本近代文学館編 編『日本近代文学大事典(机上版)』項目著者:畑実、1984年10月24日、pp.599-601頁。ISBN 4062009277 
  6. ^ 畑実「後藤宙外―その初期の一断面」(「駒澤大學文學部研究紀要」28、1970年)pp.24-34。
  7. ^ 村松定孝「〈資料〉泉鏡花逸文三篇」(「上智大学国文学論集」4、1970年)pp.40-57。
  8. ^ 後藤宙外「『新著月刊』発行とその環境」(「早稲田文学」240号、1926年1月。十川信介 編『明治文学回想集』(下)、岩波書店、1999年2月、pp.294-307)。ISBN 4003115821
  9. ^ 伊藤整「解題 後藤宙外」(『明治文学全集』第65巻、小杉天外・小栗風葉・後藤宙外集、筑摩書房、1968年)pp.419-421。ISBN 4480103651
  10. ^ 徳田秋声「予が半生の文壇生活」(「新潮」1912年1月号。『徳田秋聲全集』第19巻、八木書店、2000年11月、pp.269-274)。ISBN 4840697191
  11. ^ 日本大百科全書』 第9巻、項目著者:畑実、小学館、1986年5月、p.437頁。ISBN 4095260092http://100.yahoo.co.jp/detail/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%AE%99%E5%A4%96/ 
  12. ^ 手塚昌行「文芸革新会をめぐる反自然主義思潮」(「明治大正文学研究」24、東京堂、1958年6月)pp.80-92。
  13. ^ 伊藤整『日本文壇史』14「反自然主義の人たち」講談社文芸文庫、1997年2月。pp.114-124。ISBN 4061975544
  14. ^ 千葉三郎 編『後藤宙外―目で見るその生涯』後藤宙外翁顕彰会、1980年10月。
  15. ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)142頁
  16. ^ 後藤稜次郎「後藤宙外」(『あきた』通巻65号、秋田県広報協会発行、1967年10月1日)pp.49-53
  17. ^ a b c d 千葉三郎「後藤宙外が文壇を退いた謎」野添憲治編『秋田県の不思議事典』pp.110-111、新人物往来社、2002年11月。

文献[編集]

  • 『現代日本文学全集』第84巻、明治小説集、筑摩書房、1957年。(収録作:『ありのすさび』)。
  • 『現代日本文学全集』第97巻、文学的回想集、筑摩書房、1958年。(収録作:『明治文壇回顧録』)。ISBN 4480103651
  • 『明治文学全集』第65巻、小杉天外・小栗風葉・後藤宙外集、筑摩書房、1968年。(収録作:『ありのすさび』『獨行』『自然主義比較論』)。ISBN 4480103651
  • 島村抱月・後藤宙外・伊原青々園『風雲集』(「リプリント日本近代文学」40、2005年9月、発行:国文学研究資料館、発売:平凡社)。ISBN 4256900403
  • 後藤宙外『非自然主義』(「近代文芸評論叢書」10、1990年10月、日本図書センター)。ISBN 482059124X
  • 後藤宙外『明治文壇回顧録』(「明治大正文学回想集成」8、1983年4月、日本図書センター)。ISBN 4820563203
  • 伊原青々園・後藤宙外 編『唾玉集―明治諸家インタヴュー集』(「東洋文庫」592、1995年8月、平凡社)。ISBN 4582805922
  • 後藤宙外 編『高梨村郷土沿革紀』「高梨村郷土沿革紀」復刻版刊行会、2010年3月。
  • 「後藤宙外 目で見るその生涯」

関連項目[編集]

外部リンク[編集]