建部政宇

 
建部政宇
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 正保4年3月17日1647年4月21日
死没 正徳5年1月26日1715年3月1日
改名 三十郎、政宇
別名 主水、政吉
墓所 京都市北区紫野の大徳寺芳春院
官位 従五位下内匠頭
幕府 江戸幕府寺社奉行
主君 徳川家綱綱吉家宣家継
播磨林田藩
氏族 建部氏
父母 父:建部政長、母:不詳
養父:建部政明
兄弟 政勝政明政忠政宇藤掛永俊正室、小堀正之正室、松平康紀正室、高木正次室、川合宗賀室、大嶋義近正室、人見宜郷室ら
板倉重形の娘
政辰政周、内藤忠種正室、猪飼晴光室、有馬氏倫正室
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建部 政宇(たけべ まさのき)は、江戸時代前期から中期にかけての大名播磨国林田藩の第3代藩主。官位従五位下内匠頭

略歴[編集]

初代藩主・建部政長の五男として誕生した。幼名は三十郎、主水。初名は政吉。

寛文9年(1669年)12月の先代藩主で兄の政明の死去により、その養嗣子となって寛文10年(1670年)2月27日に跡を継いだ。同年12月28日に叙任する。禁裏造営奉行や寺社奉行などを務めた。絵画の才能にも優れ、狩野常信の門人となる。

吉良義央の親戚にあたる為、伏見奉行の時には、京都山科に隠棲した大石良雄の動向を警戒している[1]

正徳5年(1715年)1月26日、69歳で死去し、跡を次男の政周が継いだ。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院

系譜[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 落合勝信『江赤見聞記』