平良将

 
平 良将
時代 平安時代前期
生誕 貞観15年(873年)?[1]
死没 不詳
別名 良持(よしもち)
官位 従四位下鎮守府将軍
主君 宇多天皇
氏族 桓武平氏高望王
父母 父:平高望、母:藤原良方
兄弟 国香良兼良将良広良文良正[2]良茂良繇など
県犬養春枝
将持将弘将門将頼将平将文将為将武致時貞時[3]
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平 良将(たいら の よしまさ、旧字体平󠄁 良將)は、平安時代前期の武将。「良持」(よしもち)とする記録もある(後述)。平高望の三男(あるいは次男[4]、四男)で、母は正室の北家藤原良方の娘。平将門の父。下総国を本拠とし、桓武平氏の中心人物。武家平氏の実質的な祖の一人とされる。従四位下 鎮守府将軍[5]

概説[編集]

生年を貞観15年(873年)とする史料が存在する[1]

寛平元年5月13日889年6月14日)、宇多天皇勅命により平姓を賜与され臣籍降下昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の高望とともに坂東に下向した。良将の最初の営所は不明であるが、後に県犬養春枝[6][7]の娘を妻とし、下総国豊田郡を拠点にしたといわれる。

県犬養春枝の経歴は伝えられていないが、その先祖・県犬養浄人は、天平勝宝7歳(755年)に下総少目として名が見える[8]

父・高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず、前任の常陸大掾である源護の婿として常陸国に在った長兄の国香や、上総国に在った次兄の良兼とともに、良将は下総国に在って未墾地を開発し、私営田を経営[9]、また鎮守府将軍を勤めるなどし、坂東平氏の勢力を拡大。その後、各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

なお、将門記巻首、今昔物語集では名を良持とし、良兼は舎弟(良将が兄)と書かれている。

良将の子孫である氏族は、子の将門承平天慶の乱で戦没し、孫の将国常陸国信田(信太)郡浮島に逃れて、曾孫の文国が称した信田氏のみである。

平将門の乱の原因として、良将が鎮守府将軍であった時代に築いた奥州への利権を巡ってのものであったとする説がある[10]

諱について[編集]

将門記』『吾妻鏡』『平治物語』などでは「良将」、『扶桑略記』『帝王編年記』『今昔物語集』などでは「良持」とする。なお、古辞書では「将」を「モチ」と読む用法が見られ、いずれにせよ「ヨシモチ」と読んだことになるとも言える(川尻秋生『平将門の乱』)。また、「良将」と「良持」とは別人とする説もある。この場合、将門らの父は「良将」であり、「良持」はその数ある弟の一人として系図に名を残すのみとなっている」(七男で下総介)。『尊卑分脈』『桓武平氏系図』『相馬系図』『常陸大掾譜』等では将門を「良持」ではなく「良将」の子としている。なお、『平安時代史事典』で「平良持」項を書いた野口実は、平安時代中期の命名法に横の通字は存在しても縦の通字は存在しないとしており、親子で「将」の字を用いるとは考えにくいとしている。

生没年について[編集]

生没不詳であるが、延喜17年・18年(917年918年)死亡説がある。また、『常陸国正宗寺旧記』の伝えによると、延長8年(930年)9月に「鎮守府将軍平良将」が常陸に「勝楽寺」という寺院を建立したとあり、少なくとも延長8年までは存命であったとも考えられる。

生年を貞観15年(873年)とする史料も存在する[1]

系譜[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c 須藤春峰『東北中世史 岩城氏とその一族の研究』白銀書房、1975年
  2. ^ 尊卑分脈』によると良持(良将)の子とする。
  3. ^ 薩摩平氏の祖で『坂東諸流綱要』に「子孫在鎮西」とある。
  4. ^ 寛政重修諸家譜”. 2022年2月13日閲覧。
  5. ^ 兄の平良兼を差し置いて鎮守府将軍に任ぜられている事から考えて、一門の中でも器量のすぐれた人物であったようである。(『将門記1』東洋文庫)
  6. ^ 「下総少目として下りし浄人の裔」と伝えられる。
  7. ^ 兄らは源護の娘を娶り良将は違うことから、これらの事が後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかとも言われている。
  8. ^ [1]
  9. ^ 良将はその手腕を発揮して未墾地を開発し、広大な私営田を経営。勢力を着々と拡張した。こうした良将を兄の国香以下兄弟は良くは思っていなかったと思われ、また兄らは源護の娘を娶り良将は違うことから、これらの事が後の将門と伯父らの確執の原因の一つではないかとも言われている。
  10. ^ 高橋修『常陸平氏』(戎光祥出版、2015年)

参考文献[編集]

関連作品[編集]

良将を演じた俳優:小林桂樹
原作:海音寺潮五郎『平将門』『海と風と虹と』

関連項目[編集]