平田職忠

平田職忠像(京都大学総合博物館蔵)

平田 職忠(ひらた もとただ、天正8年〈1580年〉 - 万治3年6月16日1660年7月23日〉)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての地下官人有職家兵庫頭深尾職久の子。大蔵大輔平田職清養嗣子官位正四位上蔵人所出納大蔵大輔。号は萃庵

経歴[編集]

平田家庶流の出身だが、宗家である伯父職清の養子となる。天正14年(1586年従五位下左近衛将監に叙任される。舟橋秀賢有職故実を学び、「官職学の中興」として知られた。後陽成上皇にも有職故実を伝授して、慶長13年(1608年)には北畠親房が著した『職原抄』の校訂・刊行を行っている。

慶長20年(1615年左衛門大尉を兼ね、北面武士(上北面)の資格で院昇殿が許される。また、子息の晃海が師の天海とともに徳川家康に仕えたことから江戸幕府の評価も高く、慶長年間以後は蔵人方地下官人を統率する催官人の地位に抜擢された。元和6年(1620年)閏12月に大蔵大輔、翌元和7年(1621年)正月には従四位上に叙任され、平田家代々の極位極官に昇った。

更に寛永元年(1624年)同家として初めてとなる正四位下叙位を受け、寛永5年(1628年)には正四位上に至った。なお、職忠より後に正四位に昇ったのは幕末期の職寅(正四位下)のみで、正四位上にまで至ったのは職忠ただ一人となっている。寛永11年(1634年)には蔵人所出納が官務の権限を侵しているとして壬生孝亮から訴えられるが、職忠は江戸幕府の意向を得ていることを理由にこれを躱し、引き続き出納による蔵人方官人の支配が認められた。寛永13年(1636年)に致仕し、萃庵を号した。

万治3年(1660年) 6月16日卒去享年81。墓所は浄福寺にある。

人物[編集]

多くの著作を残し、『官職便覧』『童訓略頌』などがある他、徳川家康以下3代の将軍宣下に関する記録(将軍宣下記)も作成している。また、古くは『魚魯愚鈔』の著者とされていたが[1]、近年では否定されている。

官歴[編集]

地下家伝』による。

系譜[編集]

『地下家伝』による。

脚注[編集]

  1. ^ 国書総目録』説

参考文献[編集]