島田清次郎

島田 清次郎
誕生 1899年2月26日
石川県石川郡美川町(現白山市
死没 (1930-04-29) 1930年4月29日(31歳没)
東京府北豊島郡西巣鴨町庚申塚
(現東京都豊島区巣鴨
墓地 美川墓地公苑(石川県白山市)
職業 小説家
言語 日本の旗 日本
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 野町小学校尋常科卒業
金沢第二中学校中退
明治学院普通部中退
金沢商業学校本科中退
活動期間 1916年 - 1930年
代表作 『地上』
デビュー作 『死を超ゆる』
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島田 清次郎(しまだ せいじろう、1899年明治32年)2月26日 - 1930年昭和5年)4月29日)は、日本の小説家文壇で有名であった時代には「島清」という略称でも呼ばれた。

生涯[編集]

世の中への怒り[編集]

石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれ。早くに父・常吉(回漕業)を海難事故で亡くし、母・みつの実家で育つ。母の実家は金沢市内の茶屋街(西廓)で貸座敷も営み、この環境が島田の文学と性格に影響を与えた。幼いころから芸妓街で嫌々客をとらされる芸者たちや貧乏ゆえに恋愛も許されない若者を身近に見ながら育ち、他方、政治家・官僚などがまともな政治を行わずに貧民が日本に多くいることへの憤りを募らせたことが、代表作となる『地上』[1]の執筆動機となる。

反抗と自殺未遂[編集]

1911年(明治44年)、野町小学校尋常科を優秀な成績で卒業し、石川県立金沢第二中学校(現・石川県立金沢錦丘高等学校)に進学。ここでも良い成績をおさめていたが、教師に対して反抗的な態度をとることも多く停学処分を数回受けている。13歳の時には「自分の天才が世に認められない」との理由で自殺を図った。未遂に終わったものの、自ら「天才に学校の器が合わない」と感じ、1912年(明治45年)春、縁故のつてで上京、高輪の信託事業家(東京信託株式会社専務取締役)・岩崎一の邸に寄宿し明治学院普通学部(現・明治学院高等学校)に転入、母も女中頭として住み込むこととなった。ここでも2番という優秀な成績を修め、校内雄弁大会でたびたび1位となったり学外の弁論大会にも出場し、少年時代の中西悟堂加藤勘十らと覇を競うなどの早熟を示した。ところが、ここでも母の再婚話を容れられず悶着を起こし、実業家と争い1人金沢に戻った。

退学処分[編集]

金沢第二中学校3学年に首席で復学するが、祖父が投資の失敗により失踪、金銭的に苦境に立たされていたことから、堅実な会社員にしたい叔父の意向で石川県立金沢商業学校本科(現・石川県立金沢商業高等学校)に転校した。実業学校に馴染めず学業を怠り、この頃からトルストイドストエフスキーに触れ文学に熱中、同人誌に寄稿したり、「加賀の三羽烏」と称ばれた浄土真宗大谷派の宗教家・暁烏敏(明達寺)、藤原鉄乗(淨秀寺)、高光大船(専称寺)のもとに通う。校内弁論大会で校長を非難し停学処分となり、養育者である叔父の怒りを買った挙句に、学費未納により退学処分となる。

二度目の自殺未遂[編集]

1914年大正3年)秋、株式取引所や新聞社で働きながら大学を志し再び上京。母の再婚先である浅草橋には居づらく、神田の洋品店に住込んだり出版社の外交員などをしながら『世界新聞』に投稿、小品(近什二編:漂泊者 一 - 五 / 路上 一 - 五)が掲載された。自らの環境、運命を改変し、往くべき途を開拓するには「文筆に頼るしかない」と長編の執筆に焦るが、思うにまかせずここでも自殺を図った。1916年(大正5年)春、自殺未遂事件で母は離婚し母子ともに金沢に戻る。母の実家はすでに没落しており、このため母と共に金沢市外、犀川下の貧民街(養鶏場の一隅と伝えられる)に住み、母の針仕事に助けられながら、のちの『地上』の原型となる習作を書き始めた。このころの未定稿「大地炎上」「地上 草稿(タイトルも名前も付されていないが、明らかな後の第一部の原型)」が遺されている。【註:石川近代文学館蔵/清次郎母の実家から寄贈された大量の未定稿の中から、1982(昭和57)年12月7-8日未明発見された。】

「地上」発表[編集]

1916年8月27日、『萬朝報』懸賞小説に当選し、「加賀平野に芽ぐむもの」が掲載され賞金10円を得る(のちに「地上」第二部に援用)。痼疾の蓄膿症に悩みながらも自伝的長編を綴り、1917年(大正6年)5月、島田に理解を示していた暁烏敏の紹介で6月から11月にかけて『中外日報』に長編『死を超ゆる』の連載が実現(のちの『地上』第二部「地に叛くもの」)。このささやかな成功により、初めて地方の文学愛好の読者と文通を交わすことになり、さらなる文学的雄飛を促すようになっていった。つづく長編第二作(少なくとも千枚)を構想、文通仲間であった大熊信行の勧めに「死を超ゆる」の出版と上京を決意するがまもなく断念。石川県七尾町にあった鹿島郡役所書記補の仕事(月給5円)に就きながら、1918年(大正7年)7月26日、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」にインスパイアされ、自己の内面史を拡大視した長編「地上」を開稿(のちの第一部「地に潜むもの」)、1919年(大正8年)1月31日脱稿した。この間、連載小説(未完)が縁となって中外日報社主・真渓涙骨に迎えられ京都・清水坂に下宿、記者生活を送る(月給50円)。

1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」の原稿は中外日報主筆、伊藤証信(無我苑主宰)の推薦により生田長江に送られ、長江の絶賛と推薦のもと、1919(大正8)年4月上旬新人の書き下ろしをシリーズ的に出版していた新潮社中村武羅夫(『新潮』担当)、社長佐藤義亮らによって出版が決定した。

1919年6月8日、フランス装の『地上 I 地に潜むもの』上梓(初版3000部、印税なしの契約)。この作品が、芥川龍之介が「僅かに行年二十歳の青年の作であることを思へば、少なくともその筆力の雄健な一点では、殆ど未来の大成を想見せしめるものがある。」と「大正八年度の文藝界(東京日日)」に誌し、菊池寛が後に「第一巻の如き凡庸者の手になるものではない」と評した、実質的な文壇デビューの作となった。

このころ、全国的に大流行したスペイン風邪に清次郎も罹り入院している。東京帝国大学を中心とする学生グループ新人会新明正道は「島田清次郎論」を発表(『解放』第2巻 1号 1920)、吉野作造の娘、明子も好意的に接したという。その間も『地上』は版を重ね、徐々に三万部を越える。『地上』第二部「地に叛くもの」は、河上肇福田徳三厨川白村ら推薦の広告も手伝ってさらに部数を伸ばし、以降も、『早春: 白刃か、然らずんば涙をたゝえて微笑せよ(聚英閣)』『大望(たいもう)』『静かなる暴風(第三部)』『帝王者』『閃光雑記』『勝利を前にして』と、ひたすらに発する連作に、後年「輪転機から札束が湧き出た」と言われるほどであった。『地上』は江馬修の『受難者』、賀川豊彦の『死線を越えて』と並ぶ大正期の代表的なベストセラー(文芸書部門)となる。『地上』の成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを恃み、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多くあった。

社会主義への傾倒[編集]

その後、島田は社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行いながら『地上』は第四部まで刊行されてゆく。この間、堺真柄に好意を持ち婚姻を申し込もうとしたが、父親(堺利彦)からはぐらかされて相手にされなかった。『地上』第三部「静かなる暴風」は、初版三万部、発売即日完売、重版につぐ重版と、巨万の印税が入るようになって身なりも生活も豪奢となり、月々千円を使ったといわれるほどの「大正成金」ぶりであったが、社会改革という高邁な理想を掲げる反面、現実面での内的寂寥は昂ずるばかりで、放縦、放恣な生活に堕し、奔放な女性関係や、卑屈の裏返しというべき、虚栄、倨傲さが関係者から嫌われる原因となり次第に文壇的に孤立していった。それでも長江や徳富蘇峰佐藤春夫など、島田の才能を高く評価する向きも少なくなかった。『地上』は総売上げ部数三十万部を超え、清次郎の人気は絶頂に達した。清次郎と同年の新進作家、川端康成は『文藝時代』に「新しい時代の常識となり得る程の広い人生観を含んだ作品こそ、世界が求めてゐる文藝だ。(文壇波動調)1925年」と肯定的に書いた。

人気凋落とスキャンダル[編集]

1922年(大正11年)に出版社の薦めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発。 杉森久英の評伝小説『天才と狂人の間』ではアメリカにて大統領クーリッジとも面会したと伝えているが、当時クーリッジは副大統領であり、大統領ではない。おそらく事実ではないだろう。[独自研究?]ロンドンで開かれた第一回国際ペンクラブ大会に出席し、初の日本人会員に推され「ON EARTH(地上)」の翻訳出版も決定したという。ドイツでは、ベルリンの花街で娼婦と一夜をともにした際に900万マルクを女に盗まれ、「東京のプリンスが騙された」と当地の新聞に報じられた[1]

帰国後『地上』第五巻として長編小説『改元』を書き上げ、出版。このころ『地上』シリーズは実売部数、総計五十万部とも言われ、海外視察後の高揚・膨張した覇気のもと、「世界の現状及び将来」「革命の原理」「釈迦」と大著を誌し(いずれも未刊)、世界革命・宗教改革を標榜する一方で、「大言壮語」「誇大妄想」「宇宙以下の話はしないシマセイ」などと揶揄する周囲の無理解や嘲笑に苦しみ、焦燥はつのり、ますます驕傲・奇矯な振る舞いが狂的なまでにエスカレートする。生田ら数少ない文壇での支持者もこの頃には離れていった。

次第に熱を喪いつつある人気に島田は、しばしばファンレターを送る東京府立第三高等女学校(現・東京都立駒場高等学校)生徒、舟木芳江(石川県出身の海軍少将舟木錬太郎の娘で、文学者舟木重雄、舟木重信の妹、のちに中野要子の名でプロレタリア演劇女優)を半ば強引に誘いだし、徳富蘇峰に仲人を依頼するため泊まりで葉山に向かうが、帰途、逗子駅で、皇太子(昭和天皇)の葉山御用邸行啓を警備中の警官に怪しまれ尋問、検束される。この知らせを受け、婦女子誘拐、監禁・陵辱・強姦を行ったとして舟木家側が告訴。後日、恋文の存在や徳富蘇峰らの証言で無実だということになり告訴も取り下げられたものの、この事件は大きくマスコミに取り上げられ、裁判での多額の弁護料の支払も重なり、物心ともに一気に凋落することとなった。この舟木芳江事件の顛末を、徳田秋声は『解嘲』[2]として発表した(1925年)。島田の作品は全く売れなくなり、出版社からも出入りを禁じられる。紙型工程にまで仕上がっていた新作「釈迦」も未刊のままになったという。1924年(大正13年)には金銭的にも逼迫し、文壇の知り合い宅に金の無心に現れる姿が、正宗白鳥「来訪者」(1924年)や中山啓(忠直)の回想(1927年)、『文藝春秋』のゴシップ記事ほかに描かれている。菊池寛は「随想 雨滴(あまだれ)の音を聴きつつ」を『文藝春秋』に掲載、これが清次郎の文壇的絶筆となった。

統合失調症と死[編集]

1924年7月末夜半、巣鴨駅付近、東洋大学から大正大学に向かう白山通り路上を血まみれの浴衣姿で池袋の知人宅(ロンドンで知り合った新聞記者・箸本太吉)に向け人力車で通行中、折りしも爆弾テロ警戒中の警察官に職務質問され、帝国ホテル従業員に対する暴言、追いかけてきた右翼壮士により日比谷公園内で暴行を加えられ血だらけとなった、などを口にしたため、巣鴨警察署に検束される。警視庁監督官金子準二(東京警視庁技師)による精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容された。菊池寛は失脚後の清次郎に向け「島田清次郎を憫む」[3]を『文藝春秋』に掲載した(1924年)。この菊池の生原稿は、その後も長く、文藝春秋社が開催する文藝史展などで「菊池寛の直筆原稿」として常時展示されることになる。

収容中に統合失調症は回復したと伝えられるが、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。肺尖カタルが悪化、37度の発熱と下痢が続き、1930年(昭和5年)4月29日午前9時、死去した。享年31。この間「明るいペシミストの唄」など詩篇が発表されたりもし、その後も「超越者」、死の1か月前(2月11日)に擱筆し、絶筆となった自伝的長編小説『母と子』を書き上げるも未発表に終わる。1932年(昭和7年)、保養院々長・池田隆徳は「島田清次郎君の死」を発表。カルテ等は、第二次世界大戦末期に空襲で保養院が焼失したため現存しない。

墓は故郷石川県白山市市営共同墓地にあり、法名『釋清文』。「南無阿彌陀佛」と刻まれた墓の前に、虚しくも「文豪島田清次郎の墓碑(1957年、『地上』の映画化の折に建立された)」とある。島田には、別れた内縁の妻・豊(旧姓小林)との間に一子、良輔があったが、早稲田大学在学中の1945年(昭和20年)8月15日に死去した。豊は再婚し藤田姓となり成城から熱海へ転じ長く暮らした。

美川町は、1994年(平成6年)、当時日本で唯一の恋愛小説限定の文学賞である島清恋愛文学賞を制定し、町村合併以降も引き継がれている。

著作[編集]

  • 『死を超ゆる』 - 『中外日報』で執筆者として働いていた頃に書いたデビュー作。
  • 『地上』
    • 代表作で「第1部 地に潜むもの」「第2部 地に叛くもの」「第3部 静かなる暴風」「第4部 燃ゆる大地」の全4部構成(新潮社刊)。小学校から金沢商業退学までの人生経験を基に、貧困の中で恋愛や社会の不正・不平等に目覚める思春期の少年を描いた青春小説としてスタートした。
    • 代表作とされる「地に潜むもの」は、インターネット図書館「青空文庫」にて閲覧できる。
    • 『地上』第1部は1957年(昭和32年)、吉村公三郎監督、新藤兼人脚本、伊福部昭音楽、川口浩田中絹代主演で、大映により映画化されており、後に角川映画でDVD化されている。
  • 『改元』 - 島田が洋行から帰国した後に、『地上』シリーズの続編として発表。「第1巻 我れ世に勝てり」「第2巻 我れ世に敗れたり」の2部構成。
    • 第2巻の原稿は1922年(大正11年)に完成し「新しき太陽」というサブタイトルで出版の予定だったが、前後して舟木芳江とのスキャンダルから出版社から出入り禁止となったことから、刊行は保養院に入院後の1924年(大正13年)に持ち越された。「我れ世に敗れたり」と言うサブタイトルは、出版した春秋社によるもの。
  • 『大望』 - 短編集、少年時代の習作を改稿。
  • 『帝王者』 - 戯曲集・「閃光雑記」。
  • 『革命前後』 - 戯曲集。
  • 『勝利を前にして』 - 評論・講演録集。
  • 『早春』 - 箴言 アフォリズムや雑感を集めた感想集。
  • 『母と子』 - 自伝的長編小説。未発表に終わり、石川近代文学館に原稿が保存されている。

『地上』は、第1部が島田の入院中、円本ブームに乗じて刊行された「現代長篇小説全集」(1929年-1931年)に収録された。菊池寛は『地上』は凡庸者の筆に成る作ではないと作品を評価、蹉跌した島田の才を惜しんだ。その後、多くの社会主義的作品が内務省検閲により発禁の書とされたのに対し、新潮文庫には第1部・第2部が収録され、太平洋戦争の直前まで版を重ねていた。三岸節子宮尾登美子は「わが青春の書」として『地上』を挙げている。川端康成中原中也横光利一森山啓平野謙伊東一夫も島田を評価した。 1947年(昭和22年)、菊池寛の推薦に、永井荷風の『罹災日録』を出版していた扶桑社(中野区野方にあった出版書肆。現在の扶桑社とは別会社)から第1部から第3部までが復刊された。装丁を青山二郎が手がけた第一部「地に潜むもの」は版を重ね、扶桑社は絶筆となった原稿『超越者』『母と子』の刊行準備もしていた[2][3]。その後、第1部が副題を外し『地上』として、1957年に新潮社から、1973年に季節社から刊行され版を重ねている。その後、1986年『地上』全シリーズ巻6が黒色戦線社から復刻された。

以下に『地上』あらすじを記す。

第1部 
大河平一郎は、中学生。大河村きっての豪家北野家の外孫であるが、平一郎が3歳であったときに父大河俊太郎が死亡し、母お光とともに金沢の芸者周旋屋の2階を借りてくらす。吉倉和歌子という恋人がいるが、とつぜん冬子があらわれて春風楼にうつりすむことになる。冬子は東京の実業家天野栄介の妾となって連れて行かれる。冬子は平一郎をひきとって天野に世話をさせようとし、平一郎は上京したが、天野こそはお光とはふたごの綾子の一生を狂わせた張本人であった。冬子も平一郎も何も知らなかった。
第2部 
東京で成功した実業家三崎の世話になっていた赤倉清造は、正義感と激情から、境遇をこわして、金沢に帰る。おじの家から市の商業学校へかようことになるが、弁論大会の演説が学校側で問題になり、停学処分、上京し、母が再婚先の鼻緒職人の家に世話になり、それから洋品屋の小僧、出版社外交の下働きと転々として、認められないことに憤慨し、自殺未遂、そのために家にいられなくなった母をかかえて鉄工場の職工になるが、ストライキをあおってくびになり、金沢にかえる。三崎の世話になるまえからの知り合い芸者小菊と母とを殺して死刑。この汚れた世界は潔い正しい者が生きるにあたいしないとして、死ぬつもりで凶行に及んだ。
第3部 
大河平一郎は天野邸をでたのち、放浪生活を送るが、郷里の母が重病になったので帰郷し、看護しながら、新聞社の発送係をする。おりしも金沢では異端の宗教が勢力をはり、労働階級も静かに興りつつあり、天野ら資本家も大同団結を画策する。平一郎は、たまたま金沢に帰っていた和歌子と能登に旅行し、長い間中国にいた社会主義者明智豊之助と会い、その紹介で京都の新聞社から招かれ、京都にうつる。社会主義にもかならずしも賛同できず、和歌子も帰ってこなかったし、恋した女である緑も彼の熱情をうけいれない。平一郎は孤独になるが、それは万人のため生き、死ぬ自分の運命であると達観する。
第4部 
作品「新しい世界への道」で文学界、思想界の新星となった野島民造は、友人中谷とともに暮らしていたころ親しかった中谷の妹艶子が、兄の破滅と病気の妹をすくうために芸者になっているのに会う。そこへ飯坂栄子に斬り込まれる。栄子がその場で自殺したので、危うく殺人の疑いをかけられそうになるのを艶子の小菊の証言で、かろうじて免れて、この事件のためにさびしく外遊の途に就く。飯坂栄子は、古参の社会主義者飯坂利助の娘で、吉川博士の令嬢真珠と、恋を争った結果、いちどは民造の婚約者になったが、父の一存で破棄されたのである。

評伝[編集]

関連作品[編集]

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

演劇[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『行動する異端-秦豊吉と丸木砂土』 森彰英、TBSブリタニカ、1998、p61
  2. ^ 出版ニュース (1948). 
  3. ^ 「静かなる暴風」巻末・近刊広告; 嶋田清次郎 (1948). 扶桑社 
  4. ^ 劇団北陸新協の公演のために書かれた作品。
  5. ^ 劇団青年座五十嵐明の勧めで応募したもの。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]