岡部直三郎

岡部 直三郎
生誕 1887年9月30日
日本の旗 日本 広島県 広島市
死没 (1946-11-23) 1946年11月23日(59歳没)
中国 上海
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1909年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
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岡部 直三郎(おかべ なおざぶろう、1887年明治20年)9月30日 - 1946年昭和21年)11月23日)は、日本陸軍軍人。最終階級大将北支那方面軍司令官第3方面軍司令官第6方面軍司令官

経歴[編集]

広島県広島市袋町(現中区袋町)生まれ。1899年(明治32年)に崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入学。その後、陸軍中央幼年学校陸軍士官学校18期)と進み、陸軍大学校27期)卒業。陸士同期生には山下奉文藤江恵輔阿南惟幾山脇正隆安井藤治小松原道太郎らがいる。陸大卒業後、1918年大正7年)にハバロフスク特務機関砲兵大尉)、1922年(大正11年)にポーランド公使館附武官(砲兵少佐)。この時、ポーランド参謀本部から帝國陸海軍への近代的暗号技術導入を手引きした。1930年(昭和5年)に野戦重砲兵第1聯隊長砲兵大佐)、1932年(昭和7年)に上海派遣軍高級参謀。同年に参謀本部演習課長。1934年(昭和9年)に陸軍少将に昇進し、陸軍大学校研究部主事、1935年(昭和10年)に陸軍大学校幹事。陸軍大学校兵学教官として高等兵学を研究、教授し多くの人材を育成した。

日中戦争の始まりで北支那方面軍が新設されたことにより、1937年(昭和12年)に参謀長に就任、司令官寺内寿一大将を補佐し河北山西山東での作戦立案の中心となる。11月に任陸軍中将1938年(昭和13年)に徐州作戦を指導した。7月に第1師団長へ転補、1939年駐蒙軍司令官を経て内地へ戻った。1940年(昭和15年)に功により勲一等旭日大綬章功二級金鵄勲章を受章。12月に陸軍技術本部長1942年(昭和17年)10月、軍事参議官陸軍大学校校長に就任。1943年(昭和18年)2月に任陸軍大将、同期の山下奉文、藤江恵輔と同時進級であった。戦局の切迫で関東軍隷下に新設された第3方面軍司令官として第4軍草場辰巳中将・20期首席)、第6軍石黒貞蔵中将・19期)をその隷下に置き、第2方面軍(阿南惟幾大将)が南方に転用された1943年10月以降、任務を引き継いだ。ついで1944年(昭和19年)に北支方面軍司令官、湘桂作戦統帥にあたるため第6方面軍司令官として転補され漢口で終戦を迎えた。戦後、戦犯容疑者として勾留され、1946年(昭和21年)11月に上海で病死した。

人格[編集]

岡部が陸大幹事(副校長格)時の在学生であった高山信武によれば、岡部は寡言黙考、沈着冷静の将軍であり、その一言一語には千鈞の重みが感じられたという。教授する戦術思想は堅実で、孫子を引用し、不敗の態勢を整えてから勝利を考えるよう教えていたことから、当時の陸大校長で積極攻勢思想を持論としていた小畑敏四郎中将(16期)と比較されたという。

また、高山砲兵大尉らが卒業した1935年(昭和10年)の陸大(47期)卒業式においては、フリードリッヒ大王ナポレオンを引き合いに出し、わが日本軍隊を統率するのは(ナポレオンらのような)権力や利益によるものでも、威嚇によるものでもなく、天皇の御稜威(みいず)のもと委任され統率するのであって、道義と責任感をもって部下を指導しなければならないと学生に講演し諭したという。[1]

栄典[編集]

位階
勲章

書籍[編集]

  • 『岡部直三郎大将の日記』、芙蓉書房、1982年3月

脚注[編集]

  1. ^ 上法快男編、高山信武著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年
  2. ^ 『官報』第2130号「叙任及辞令」1934年02月09日。
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

参考文献[編集]

  • 『日本陸海軍人名辞典』、芙蓉書房、1999年12月
  • 上法快男編、高山信武著、『続・陸軍大学校』芙蓉書房 1978年

外部リンク[編集]