岡部次郎

岡部次郎
岡部次郎の肖像画(岡田三郎助筆、1898年

岡部 次郎(おかべ じろう、元治元年8月30日1864年9月30日) - 大正14年(1925年7月8日[1])は、日本の衆議院議員立憲政友会中正会憲政会)。

経歴[編集]

信濃国佐久郡春日村(現在の長野県佐久市)出身。岡部弥門の二男[2]。上田中学校(現在の長野県上田高等学校)で学んだ後、東京同人社英学を学んだ[3]1885年高橋是清の渡米に従い、その後、ハワイに渡って、ハワイ王国ハワイ共和国の顧問を務めた[3]。その後、アメリカ本土に戻って、カリフォルニア大学を卒業[4]、さらにシカゴ大学で修士号を得た[5]。また、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスハイデルベルク大学パリ大学にも遊学した[3]

1899年、帰国して外務省翻訳官となった。その後、伊藤博文渡辺国武を助けて立憲政友会の創設に尽力し[4]、さらに『北海タイムス』の主筆となった。日露戦争の際には従軍して、外国通信員監督を務め、さらに営口軍政署外交課長、営口居留民団長、営口行政委員会議長を歴任した[5]

1912年第11回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。以後、4回当選を重ねた。その間、第2次大隈内閣海軍参政官を務めた。その他、満洲新報社長、国際平和協会専務理事、華日興業株式会社社長などの職にあった[5]

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 『官報』第3864号、大正14年7月10日
  2. ^ 『信濃人物略誌』p.53-54
  3. ^ a b c 『現代日本の政治家』p.22-23
  4. ^ a b 『新代議士名鑑』p.199
  5. ^ a b c 『代議士詳覧』p.327
  6. ^ 『官報』第3863号「叙任及辞令」1925年7月9日。

参考文献[編集]

  • 広幡明男『大正十三年五月当選 代議士詳覧』泰山堂、1924年。 
  • 加藤紫泉『新代議士名鑑』国民教育会、1924年。 
  • 『信濃人物略誌』信濃青年会、1919年。 
  • 細井肇『現代日本の政治家』国光社、1916年。