岡倉士朗

1948年

岡倉 士朗(おかくら しろう、1909年9月24日1959年2月22日)は、日本演出家。美術史家の岡倉天心の甥。

新築地劇団、ぶどうの会と民衆芸術劇場(のち劇団民藝)と渡り、歌舞伎オペラなどの演出にも携わった[1]

来歴[編集]

東京市本郷区丸山新町(現・文京区白山)出身[2]

立教大学在学中の1929年に発足した新築地劇団に参加する[2]。演出は土方与志から指導を受けた[2][注釈 1]。大学卒業後も引き続き劇団に在籍した[2]。新築地劇団在籍中に『』(長塚節作、1937年)や『綴方教室』(豊田正子作、1938年3月)を演出して評価を受ける[2]1940年8月に新築地劇団を退団するが、治安維持法違反で[要出典]検挙され、翌年保釈された[2]

1943年東宝に入社する[1][2]

戦後の1947年木下順二山本安英らとぶどうの会を結成[1][2]。同年の民衆芸術劇場の創設にも参加した[2]1949年、民衆芸術劇場の『女子寮記』、『山脈』を演出する。木下順二がこの年発表した『夕鶴』は5月にまずラジオドラマとして上演され、12月に「ぶどうの会」で初めて舞台上演がなされたが、そのいずれでも演出を担当した[3][4]。以後の上演でも岡倉が引き続き演出した[4]

1950年から1951年にかけて、『現代演劇論大系』(全8巻、五月書房)と別巻の編集に山川幸世とともに携わる。1951年には劇団民藝『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』を演出した。また同年には『なよたけ』(加藤道夫作、尾上菊五郎劇団)も手がけている[5][注釈 2]

1955年團伊玖磨作曲・木下順二作の歌劇『聴耳頭巾』(宝塚大劇場、大阪勤労者音楽協議会委嘱)の演出を担当した。

しかし、1959年に急逝する。この死去について山本安英は1960年[6]に「ぶどうの会も(中略)大きな転機に立たされたことになります」と記している[7][注釈 3]。岡倉による『夕鶴』の演出は、1971年に木下順二が見直すまで踏襲されていた[4]

賞歴[編集]

  • 毎日演劇賞(1949年) - 『夕鶴』演出[1][2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 土方は劇団の創設者で主宰者。
  2. ^ このときの上演は脚本の一部を省略しており、『なよたけ抄』として上演された。
  3. ^ 「ぶどうの会」は岡倉の死去から5年後の1964年に、山本の意向で解散した。

出典[編集]

  1. ^ a b c d 岡倉士朗 - Yahoo!百科事典 日本大百科全書(小学館)祖父江昭二[リンク切れ]
  2. ^ a b c d e f g h i j 岡倉士朗 - 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年(リンク先はコトバンク
  3. ^ 宮岸泰治 2006, p. 97.
  4. ^ a b c 宮岸泰治 2006, pp. 48–50.
  5. ^ 新橋演舞場 (1951年06月)”. 歌舞伎公演データベース. 2023年12月9日閲覧。
  6. ^ 岡倉士朗・木下順二共編で『山本安英舞台写真集』未來社(資料篇と分冊)が刊行した。
  7. ^ 山本安英『歩いてきた道』中央公論社中公文庫〉、1994年11月3日、p.99

参考文献[編集]

  • 宮岸泰治『女優 山本安英』影書房、2006年10月7日。