山下賢章
やました けんしょう 山下 賢章 | |
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生年月日 | 1944年7月8日 |
没年月日 | 2016年8月16日(72歳没) |
出生地 | 日本 鹿児島県肝属郡串良町 |
職業 | 映画監督 |
主な作品 | |
『ゴジラvsスペースゴジラ』 |
経歴[編集]
早稲田大学第一文学部哲学科を卒業後[要出典]、1969年に東宝に入社[3][1]。岡本喜八を筆頭に師事[1][2]。1975年、本多猪四郎が監督を務めた『メカゴジラの逆襲』でチーフ助監督に就任[1][2]。同作品への参加には、岡本からの後押しもあったという[2]。
1979年に映画『トラブルマン 笑うと殺すゾ』で監督デビュー[3][1]。東宝映画では監督を3本務めたらフリー契約をするという暗黙のルールがあったため、監督作を3本は撮りたいと考えていたが、邦画斜陽の時代では実現が難しく、その後も東宝社員のまま助監督時代が長く続いた[1]。
2016年8月16日、急性心不全のため逝去。72歳没[4]。
人物[編集]
映画業界を目指したきっかけは、学生時代に岡本喜八が監督を務めた映画『肉弾』(1968年)を観て感銘を受けたことであった[1]。助監督時代に岡本へ師事したのも本人のたっての希望であった[1]。
山下について、『ゴジラvsスペースゴジラ』に出演した橋爪淳は、俳優の自由に演じさせてくれたといい、話し合いでも自身の意見を押し付けてくることはなかったと証言している[5]。同作品に出演した小高恵美は、山下を「すごくねばる監督」であったと述懐している[6]。同じく出演者の吉川十和子は、登場人物の心を大事にしており、心理的な描写が緻密であったと評している[7]。音楽を担当した服部隆之も、山下から要望を出すことはなかったが、キャラクターを深掘りする要素を教えられ、作曲がやりやすかったと述べている[8]。
作品[編集]
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g h i j 平成ゴジラ大全 2003, pp. 252–253, 「急之弐 『ゴジラVSスペースゴジラ』 監督・山下賢章」
- ^ a b c d e 東宝チャンピオンまつりパーフェクション 2014, p. 92, 「メカゴジラの逆襲 メイキング」
- ^ a b c ゴジラ大百科 1994, pp. 46–47, 「インタビュー 山下賢章」
- ^ a b “訃報 山下賢章さん72歳=映画監督”. 毎日新聞 (毎日新聞社). (2016年9月7日). オリジナルの2016年9月7日時点におけるアーカイブ。 2022年10月21日閲覧。
- ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 150–152, 「インタビュー 橋爪淳」
- ^ ゴジラ大百科 1994, pp. 48–49, 「インタビュー 小高恵美」
- ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 153–155, 「インタビュー 吉川十和子」
- ^ 東宝SF特撮映画シリーズ9 1994, pp. 146–149, 「インタビュー 服部隆之」
参考文献[編集]
- 『ゴジラVSスペースゴジラ』東宝 出版・商品事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.9〉、1994年12月10日。ISBN 4-924609-52-8。
- 『ENCYCLOPEDIA OF GODZILLA ゴジラ大百科 [スペースゴジラ編]』監修 田中友幸、責任編集 川北紘一、Gakken〈Gakken MOOK〉、1994年12月10日。
- 『日本映画人名事典・監督篇』キネマ旬報社、1997年。ISBN 4-87-376208-1。
- 『平成ゴジラ大全 1984-1995』編著 白石雅彦、スーパーバイザー 富山省吾、双葉社〈双葉社の大全シリーズ〉、2003年1月20日。ISBN 4-575-29505-1。
- 『平成ゴジラクロニクル』キネマ旬報社、2009年。ISBN 4-87-376319-3。
- 電撃ホビーマガジン編集部 編『ゴジラ 東宝チャンピオンまつり パーフェクション』KADOKAWA(アスキー・メディアワークス)〈DENGEKI HOBBY BOOKS〉、2014年11月29日。ISBN 978-4-04-866999-3。
外部リンク[編集]
- 山下賢章 - allcinema
- 山下賢章 - KINENOTE
- 山下賢章 - MOVIE WALKER PRESS
- “山下賢章”. 東宝. 2014年4月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月21日閲覧。
- 山下賢章 - 日本映画データベース
- Kensho Yamashita - IMDb(英語)
- 2005年衆院選選挙公報 山下万葉(無所属) - 息子・万葉の選挙公報。