山下りん

山下りん
26歳時の写真
誕生日 安政4年5月25日
1857年6月16日
出生地 日本の旗 日本常陸国茨城郡笠間[注 1](現・茨城県笠間市
死没年 1939年1月26日(1939-01-26)(81歳)
死没地 笠間地方[注 2]
墓地 笠間の光照寺(真宗大谷派
国籍 日本の旗 日本
芸術分野 宗教画(イコン洋画[1]
教育 工部美術学校中退
帝政ロシアペテルブルクの女子修道院にて修行
影響を受けた
芸術家
中丸精十郎
アントニオ・フォンタネージ
山室政子
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山下 りん(山下 里舞、やました りん、安政4年5月25日1857年6月16日〉- 1939年昭和14年〉1月26日[2])は、日本の画家である。女性。常陸国茨城郡笠間[注 1]幕藩体制下の常州笠間藩、現在の茨城県笠間市)の出身。正教徒で、聖名イリナ。そのため、しばしばイリナ山下りんとも呼ばれる。

日本人初のイコン画家として知られる[1]。日本で最も早期の女性洋画家の一人[1]

略歴[編集]

1873年明治6年)に東京府に出て豊原国周という浮世絵師に学び、後に川上冬崖に洋画を学んだ中丸精十郎に師事する。1877年(明治10年)には工部美術学校に入学し、アントニオ・フォンタネージの指導を受けた。同窓生の山室政子の影響で正教会に改宗した。工部美術学校は1880年(明治13年)に退学する。

同年、山室の代役で教会より派遣され聖像画家として修養すべく帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクに留学した。ビザンチン式の聖像の技法を山下自身は好まず、ロシア滞在中に記した日記に「イコンはおばけ絵」「イタリヤ画(ラファエロが描いたような絵)が画きたい」などの発言を残している。滞在中は女子修道院でイコン製作技術を学び、本当は5年滞在のところを丸2年滞在して1883年(明治16年)に帰国した[3]

『ハリストス復活』/1891年(明治24年)頃の作。

帰国後は東京神田駿河台にあった日本正教会の女子神学校にアトリエを構え、外界との接触を絶ちイコン制作に没頭する。1891年(明治24年)に竣工したニコライ堂にも後にイコンを描いた(関東大震災で焼失)。主に関東地方や東北北海道を中心に300点あまりの聖像を残した。作風には留学当時ロシアで支持されていた西欧カトリックの宗教画の影響が強く、模写したロシア・イコンを通じて山下りんがギュスターヴ・ドレの聖画集を間接的に模写していたことが指摘されている。

山下のイコンは全て模写であり無署名である。この点において、正教のイコンの原則を忠実に守っている。ロシア留学からの帰国後は、留学経験を誇る風もなく、機関紙である『正教時報』に留学体験を書くこともなく、肖像写真にも土産にもらったワンピースを着ることもなく粗末な木綿の着物で写り、教会内で目立った自己主張もせず、ただただイコン制作のみに努めた。当時の女子神学生の証言として、周囲とは全く没交渉で、浴室で稀に会った程度であり、アトリエすらも見た者は居なかったというものがある[4]

ロシア革命後は正教も衰えたため、1918年大正7年)、61歳で郷里の笠間[注 2]に戻った。晩年は白内障のためもあって絵筆はとらなかったという。満81歳で没。墓所は、笠間にある光照寺(真宗大谷派)にある。

2005年、山下が44歳(1901年・明治34年)で制作した、個人所有のイコン「ウラジーミルの聖母」がTV番組『美の巨人たち』でとりあげられた。

留学先[編集]

りんの留学した修道院は、長らく名称、所在地が不明であったが、1979年川又一英が、当時のレニングラード(現・サンクトペテルブルク)を訪問し、突き止めている。これは、市の中心から南へ5キロメートル、ザバルスカン大通り(現モスコフスキー通り)に面した、正式名称サンクトペテルブルク復活女子大聖堂、通称ノヴォデーヴィチ女子修道院である。エルミタージュ美術館へ行程8kmほどで、一時期、りんは馬車で通っていた。その後、ロシア革命、第二次大戦を経て荒廃していたが、ソビエト連邦の崩壊後、徐々に再建されている。

派生作品[編集]

  • 映画『イコン伝説 追憶のエルミタージュ』[5][6] - 1992年(平成4年)製作、同年12月12日封切り。監督・脚本:石侍露堂。主演(山下りん役):伊地知聖子。製作:日ロ映画製作委員会=ウィルプロ=ケンタウロス。配給:東映アストロ。

参考文献[編集]

  • 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家 12の物語』光文社、2014年7月17日。 ISBN 4-334-03811-5ISBN 978-4-334-03811-3OCLC 887779243
  • K「正敎會記事 聖像畫家山下媼永眠」『正教時報』第28巻第3号、正教時報社、1939年、29頁。 

関連文献[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ a b 資料に「常陸国茨城郡笠間」とあるが、「笠間」は藩の名称であって郡の地名ではない。本来ここには町村名が記されるべきであるが、その資料は確認できない。
  2. ^ a b 資料に「笠間市」とあるが、当時はまだ笠間市は存在しない。ここは茨城県茨城郡の町村名を記すべきであるが、当時のそれも江戸時代のそれも資料で確認できないため、特定ができない。

出典[編集]

  1. ^ a b c 山田五郎 YouTube-20220422.
  2. ^ K 1939
  3. ^ 中野 (2014), p. 178.
  4. ^ 『山下りんとその時代展』より一部抜粋鐸木道剛岡山大学准教授)[リンク切れ]
  5. ^ イコン伝説 追憶のエルミタージュ」『映画.com』株式会社エイガ・ドット・コム。2022年9月16日閲覧。
  6. ^ イコン伝説 追憶のエルミタージュ」『MOVIE WALKER PRESS』株式会社ムービーウォーカー。2022年9月16日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]