居合道

居合道
いあいどう
居合道の演武
居合道の演武
競技形式 演武
使用武器 日本刀
発生国 日本の旗 日本
源流 居合術
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居合道(いあいどう)とは、古武道居合術現代武道化したものである。

演武による試合形式を本旨として、段級位制を取るが、それらを除けば、思想的・技術的な面からして、「居合道」と「居合術」の境界は明確には存在しない[1]

歴史[編集]

起源[編集]

居合道の源流である抜刀術(居合術)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての剣客林崎甚助によって創始されたといわれる。江戸時代には数多くの流派が生まれた。

明治から昭和前期[編集]

明治維新による武士階級の崩壊、さらに1876年廃刀令に代表される近代化欧化主義政策によって、剣術とともに居合諸流派は大打撃を受けた。一部有志の人々によってわずかに命脈を保ち、1886年警視流制定の際には、剣術形10本に対し、居合形5本(前、後、左、右、四方)を各流派からとって組み立てたものの、普及するには至らず、1895年大日本武徳会が設立されると、優れた居合術の演武をした者に精錬証(のち錬士)及び教士範士の称号が授与された。ただし段位は設けなかった[2]。また、当時は「居合」より「居合」という呼び方が一般的であり、大日本武徳会では「居合術」と呼称していた[3]。居合術はわずかに各種大会に演武の機会を与えられるに過ぎなかった。20世紀に入ると、伯耆流星野九門熊本)、無双直伝英信流大江正路高知)、中山博道東京)らの努力によって、ようやく居合術の存在が世に認められるようになった[4]

1933年、中山博道はその後の研究の成果を踏まえて、長谷川英信流の形を新たに編成し、夢想神伝流と称して、その普及を図った。当時の武徳会居合術範士は中山ただ1人(教士31名、練士63名)であり、その影響力は大きく、現代の居合道に及んでいる。なお太平洋戦争突入直前の1941年3月、居合術の称号所有者数は、範士2、教士50、練士178、計230名と、この戦時下8か年に2.4倍となっている[4]

1945年昭和20年)、太平洋戦争日本が敗戦した後、大日本武徳会は占領軍指令により解散し、日本刀も多くが没収、廃棄された。

昭和後期以降[編集]

占領が解除された1952年(昭和27年)、大日本武徳会の事実上の後継団体として全日本剣道連盟が発足したが、全日本剣道連盟は当初剣道のみを所管し、居合道は所管しなかった[注釈 1]。そのため無双直伝英信流第20代宗家河野百錬らが、1954年(昭和29年)に全日本居合道連盟を結成した。

1956年(昭和31年)、全日本剣道連盟が居合道部を創設し、全日本居合道連盟との間で合併が議論されたが、意見がまとまらず交渉は決裂した[注釈 2][注釈 3]。これにより居合道界は全日本居合道連盟と全日本剣道連盟居合道部に分断された。

1974年(昭和49年)に河野百錬が死去すると、無双直伝英信流宗家の継承争いが起き、全日本居合道連盟から大日本居合道連盟日本居合道連盟全国居合道連盟が派生し、居合道の連盟は複数に分裂した。現在、各連盟にほとんど交流はなく、演武大会や段級位審査はそれぞれの連盟が独自に行っている。

流派[編集]

各連盟に加盟している流派は、無双直伝英信流及び夢想神伝流が多数を占める。次いで土佐直伝英信流、伯耆流田宮流無外流、等が多い。

技法と特徴[編集]

一本目 前

座った状態で、から刀剣を抜き放ち、さらに納刀に至るまでをも含めた技術を、一つの独立した武道と成している国は全世界でも日本のみで、実は非常に稀有なものである。

剣道のような打ち合いや激しい運動ではないため、老若男女を問わず学べる武道でもある。2009年(平成21年)の全日本剣道連盟居合道初段取得者1270人のうち女性は約3割を占める[8]

また、剣術との相違点は、剣術は初めから互いを敵とした敵対動作から始まる、いわゆる敵との「立合」から始まるのに対し、居合道は主に床の間での想定のような普段の生活の中など、「居」ながらにして敵に「合う(遭遇する)」として形が組まれている点にある。演武では、奉納、作法を意識している点も挙げられる。

抜刀道との相違点は、抜刀道は主に刀を抜いた状態から立ち技で試し斬りを行うが、居合道は主に空間の形稽古を行い、抜き付けとよばれる刀を鞘から抜き放ちながら斬る技術が重視されている。試し斬りは団体にもよるが、頻繁に行うものではなく、一切行わない団体も多い。

服装・用具[編集]

道着を着用する。高段者は正装として紋付仙台平の袴を着用することもある。

一般には居合刀(模擬刀)を使用することが多いが、上級者では真剣を使用する。

段級位制・称号[編集]

各連盟において段級位及び称号範士教士錬士)が設けられており、形の演武及び筆記試験を経て授与される。最高段位や受験資格等の規定は連盟によって異なる。 全日本剣道連盟の居合道については剣道の段級位制に準ずる。

また、範士及び八段になるためには審査員に数百万円の裏金を渡すことが常態化していたとの問題が発覚している(全日本剣道連盟居合道部)。これにより、居合道委員の再編が行われたが、金銭を受領した者への処分や公表は行われていないことで、居合道委員が浄化されることへの疑問は残る。

試合[編集]

試合は実際に斬りあうのではなく、段位ごとに、連盟の規定技(全日本居合道連盟刀法全日本剣道連盟居合などの連盟制定形)や流派の形を演武し、審判員の掲示による多数決採点で評価することで勝敗を判定する。1964年東京オリンピック体操競技を見て採点方法のヒントを得た政岡壹實が、居合道普及の一策として考案した[9]。高段位においては勝敗を決めず演武のみになる団体もある。

また、神社などで形を披露する奉納演武を執り行うこともある。試合と異なり儀式的な意味合いが強い。

年表[編集]

居合道専門団体[編集]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 全日本剣道連盟は剣道をスポーツとして行う方針を打ち出し、日本刀を使用する居合道を除外した[5]
  2. ^ この経緯について河野百錬は、「新生剣道はスポーツであるから刀やなぎなたといった武器をつかう武術は別だ、といっていたのに、いつの間にか一緒にやろうと卑劣な手段までつかって誘い出してきた。女性たちのなぎなたは自分たちの連盟があるからけっこう、と拒絶できたが、居合は剣道人たちがいるし、戦前からやっている人は武徳会の段位称号に弱い。どうしても武徳会イコール全剣連になってしまう。はじめは居合道は剣道の従属物でも附属物でなく、これ自体独立した武道だ、といって従来通りに全日本居合道連盟でやろう、といっていたが、全剣連の段位称号でつられたり、全居連にいる者は剣道の昇段試験に影響する、とおどかしてくるので、次第に引き抜かれていったのです。」と述べている[6]
  3. ^ 紙本栄一は晩年、『剣道日本』の取材に対し、「全日本剣道連盟が昭和27年に結成されましたが、居合道は組織の一部としてとり上げてくれない。近畿以西の四国や九州には各流派を学んだ居合道愛好家がいて、戦後初の京都大会が開かれたとき、京都の大野熊雄先生のところにそうした人たちが寄ったものです。河野百錬さんもおられ、スキヤキをつっつきながら、全日本剣道連盟がとり上げてくれないのなら我々で組織を作ろうではないか、将来、全日本剣道連盟が居合道を組織に入れなければ、そのまま移行すればいい、といった話し合いで全日本居合道連盟というのができました。戦前の居合道には称号はあったが段位はなかったので、この全日本居合道連盟では独自に段位を定め、わたしのように教士の称号をもっているものは、居合道八段とされた。このときは段位、称号を全日本居合道連盟が与えても何の不都合もなかった。30年に全日本剣道連盟が居合道を組織にきちんと入れるということで、当時の庄子宗光理事長、渡辺敏雄事務局長が全日本居合道連盟の会員全員を入れようとしたが、話がまとまらず決裂しました。そのため全日本剣道連盟所属者以外は全日本剣道連盟の大会と行事に参加させないことに決定したのです。」と述べている[7]

出典[編集]

  1. ^ "居合は「スポーツ」なのか?――全剣連居合道部の金銭授受問題をめぐって(田邊元)"SYNODOS
  2. ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』54頁、251頁、スキージャーナル
  3. ^ 武道範士教士錬士名鑑』(昭和12年)、大日本武徳会本部雑誌部
  4. ^ a b "日本大百科全書「居合術」の解説(渡邉一郎)"コトバンク
  5. ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』25頁、スキージャーナル
  6. ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』28頁、スキージャーナル
  7. ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』250-251頁、スキージャーナル
  8. ^ ウーマンアイ 刀剣人気 歴女が進化、居合や殺陣に魅了 - 47NEWS共同通信 2010/02/15)
  9. ^ 池田清代『居合道名人伝 上巻』59頁、スキージャーナル

参考文献[編集]

  • 池田清代『居合道名人伝』上・下、スキージャーナル
  • 剣道日本『居合道虎の巻』、スキージャーナル

関連項目[編集]

外部リンク[編集]