尾上卯多五郎

おのうえ うたごろう
尾上 卯多五郎
本名 山田 卯吉(やまだ うきち)
別名義 卯島 五郎(うじま ごろう)
尾上 宇多五郎
尾上 卯太五郎
生年月日 (1875-01-01) 1875年1月1日
没年月日 (1934-12-11) 1934年12月11日(59歳没)
出生地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
職業 俳優、元歌舞伎役者、元子役
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間 1883年 - 1934年
主な作品
鬼作左衛門の娘
怪力八郎
フラフラ豪傑
復讐と女
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尾上 卯多五郎(おのうえ うたごろう、1875年1月1日 - 1934年12月11日[1])は、日本の俳優、元歌舞伎役者、元子役である[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名山田 卯吉(やまだ うきち)[2][3][4][5][6][11]。旧芸名卯島 五郎(うじま ごろう)[11]尾上 宇多五郎尾上 卯太五郎と表記に揺れがある[7]。歌舞伎から剣戟映画に満44歳で転向し、還暦を迎える直前まで日活京都撮影所に所属した[2][3][4][5][6]

人物・来歴[編集]

1875年明治8年)1月1日大阪府大阪市に生まれる[2][3][4][5][6][7][11]

旧制・尋常小学校を卒業後、二代目尾上卯三郎の門下に入って歌舞伎役者になり、大阪の朝日座で初舞台を踏んだ[2][3][4][5][6][11]。1916年(大正5年)9月1日に公開された天然色活動写真製作・配給の映画『忍術三勇士』に出演した記録がある[7]。1919年(大正8年)、満44歳で日活京都撮影所(のちの日活大将軍撮影所、現存せず)に入社、映画俳優に転向する[2][3][4][5][6][11]。同撮影所のスター俳優・尾上松之助主演の映画に、老け役として多数の映画に出演した[2][3][4][5][6][7][11]。1924年(大正13年)8月1日に公開された池田富保監督の『鬼作左衛門の娘』、1925年(大正14年)2月8日に公開された公木之雄監督の『怪力八郎』、同年3月20日に公開された池田富保監督の『フラフラ豪傑』、同年5月29日に公開された築山光吉監督の『復讐と女』では主演もしている[7]。同年11月1日に公開された「尾上松之助主演千本記念映画」、池田富保監督の『荒木又右衛門』にも、渡辺靭負の役で出演した[7][10]。1926年(大正15年)9月11日、尾上松之助が死去した後も、引き続き同撮影所で脇役として出演を続けた[2][3][4][5][11][12]。1927年(昭和2年)秋には、撮影所が太秦に移転(のちの大映京都撮影所、現存せず)し、卯多五郎もともに移転して引き続き出演した[7]大久保彦左衛門役をやることが多く、『彦左の恋』(監督不明、1923年)、『忍術一夜大名』(監督高橋寿康、1926年)、『剣乱の森』(監督渡辺邦男、1928年)と3作を数えた[7]。また、1928年(昭和3年)5月31日に公開された伊藤大輔監督の『新版大岡政談 第一篇』および同年6月8日に公開された同じく伊藤大輔監督の『新版大岡政談 第二篇』出演時のみ、「卯島 五郎」と名乗った[11]

1930年(昭和5年)3月14日に公開された伊丹万作監督の『春風の彼方へ』以降は、片岡千恵蔵プロダクション製作の作品に多く出演した[7]。1932年(昭和7年)7月には、日活専務取締役の中谷貞頼による大解雇事件に遭い、嵐珏松郎嵐亀三郎尾上華丈阪東巴左衛門らと共に日活を正式に退社してフリーランサーとなる[5][11]。1933年(昭和8年)6月1日に公開された池田富保監督の『楠正成』は、太秦発声映画の製作による、卯多五郎にとっての初のトーキーであった[7]。ところが、翌1934年(昭和8年)12月31日に公開された小石栄一監督のトーキー『斬風三尺剣』以降の出演記録が見当たらない[7][8][10]。脇役・端役が多く、クレジットが記録に残らなかったものを含めると、出演作は数百に上るという[2][3][4][5]。以後の消息は不明[2]とされていたが、『讀賣新聞』同年12月14日付にて、去る12月11日朝に心臓病のため、京都府京都市の自宅で死去したと報じられている[1]。満59歳没(数え年60歳[1])。

フィルモグラフィ[編集]

すべてクレジットは「出演」である[7][8]。公開日の右側には役名[7][8]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[9]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。

天活[編集]

すべて製作・配給は「天然色活動写真」、すべてサイレント映画である[7][8]

日活京都撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「日活京都撮影所」(大将軍)、すべての配給は「日活」である[7][8][10]。すべてサイレント映画である[7][8][10]

日活京都撮影所第一部[編集]

すべて製作は「日活京都撮影所第一部」(大将軍)、すべての配給は「日活」である[7][8][10]。すべてサイレント映画である[7][8][10]

  • 涙の捕縄』 : 監督築山光吉、1925年2月1日公開 - 松平伊豆守
  • 怪力八郎』 : 監督公木之雄、1925年2月8日公開 - 種田二郎左衛門国春後に船頭二郎兵衛(主演
  • 高阪甚内』 : 監督辻吉郎、1925年2月22日公開 - 老中忠之進
  • フラフラ豪傑』 : 監督池田富保、1925年3月20日公開 - 張子虎右衛門(主演
  • 復讐と女』 : 監督築山光吉、1925年5月29日公開 - 筑紫太左衛門秋春(主演
  • 児來也』 : 監督池田富保、1925年7月14日公開 - 百姓 畑作
  • 原田甲斐』 : 監督築山光吉、1925年製作・公開 - 伊達安芸
  • 新撰組 後篇』 : 監督辻吉郎、1925年製作・日公開 - 目漏し浪人

日活大将軍撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「日活大将軍撮影所」、すべての配給は「日活」である[7][8][10]。すべてサイレント映画である[7][8][10]

日活太秦撮影所[編集]

すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべての配給は「日活」である[7][8][10]。すべてサイレント映画である[7][8][10]

片岡千恵蔵プロダクション[編集]

特筆以外すべて製作は「片岡千恵蔵プロダクション」、すべての配給は「日活」である[7][8][10]。特筆以外すべてサイレント映画である[7][8][10]

脚注[編集]

  1. ^ a b c 『讀賣新聞』1934年12月14日付。
  2. ^ a b c d e f g h i j キネマ旬報社[1979], p.128.
  3. ^ a b c d e f g h i 映画世界社[1928], p.29-30.
  4. ^ a b c d e f g h i 映画世界社[1929], p.36.
  5. ^ a b c d e f g h i j 映画世界社[1934], p.47.
  6. ^ a b c d e f g 尾上卯多五郎jlogos.com, エア、2013年1月17日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y 尾上宇多五郎日本映画データベース、2013年1月17日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 尾上卯多五郎、日本映画情報システム、文化庁、2013年1月17日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h 尾上卯多五郎東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年1月17日閲覧。
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 尾上卯多五郎、日活データベース、日活、2013年1月17日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h i j 国書刊行会[2004], p.51.
  12. ^ 朝日日本歴史人物事典『尾上松之助』 - コトバンク、2013年1月17日閲覧。

参考文献[編集]

  • 『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年10月23日
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』、映画世界社、1928年
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』、映画世界社、1929年
  • 『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』、映画世界社、1934年
  • 『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年11月 ISBN 4816915133

関連項目[編集]

外部リンク[編集]