ジュニアスポーツ車

「モンテカルロ コンポデジメモ」(1981)

ジュニアスポーツ車(ジュニアスポーツしゃ)は、少年用スポーツ車[1]少年用スポーツサイクルなどとも呼ばれる、1970年代から80年代に日本で流行した自転車の一形態である。おもに小学校高学年から中学生の男の子を対象として販売された。トップチューブに装着されている自動車のセレクター(シフトノブ)を模したシフターと、2灯ヘッドライトがほぼ共通した特徴である。当時はより簡素なシングルギアの少年用自転車に対して、外装変速機を用いたより本格的な自転車という意味合いから、サイクリング自転車サイクリング車、と呼ばれることも多かった。

ジュニアスポーツ車のうち、特に1970年代前半までに製造・販売され、後部に流れる方向指示器(フラッシャー)などの灯火部品を装備したものはフラッシャー自転車とも呼ばれる[2]。これに対して、1970年代後半のスーパーカーブーム以降に製造・販売され、スポーツカーのデザインに影響を受けたものは、スーパーカー自転車と呼ばれることがある[3]。ただしこれは、販売されていた当時、一般的に用いられていた名称ではない。

名前にジュニア(年少者)とあるが、販売ターゲットとしては女子は含まれていなかった。

歴史[編集]

誕生[編集]

ジュニアスポーツ車は1960年代後半に従来のサイクリング車をもとにして少年用に開発された。最初に流れるフラッシャーを装備したのは、1968年日米富士自転車より発売された「富士フラッシャーテン」である。これは、日本車へのシーケンシャルフラッシャーの導入(1970年、日産・ローレル)より早い。また同時期に、新家工業(ツバメ自転車)、丸石サイクルナショナル自転車、セキネなどもジュニアスポーツ車を発売している[2]

フラッシャー自転車の時代[編集]

ジュニアスポーツ車に搭載されるフラッシャーは、1972〜74年ごろにかけて次々と大型化、高機能化されていった[2]。この時期の代表的な商品としては、アストロG(ブリヂストンサイクル)、エレクトロボーイ(ナショナル自転車)、ハイマディスクZ(同)、エスパトロン5(富士)、エレクトロGTやスカイランサー(ツノダ)などがある。なかでも、セキネVX GTO(セキネ)はジュニアスポーツ車の最高傑作とも言われている[2]少年マガジンなどの雑誌広告や記事など宣伝も効してヒットした結果1970年代には大小20社あまりが製品開発を競い合っていた[4]

しかし、過度の電飾機能への電力供給問題から市販の乾電池(単1電池×6〜8本)を搭載した結果、最終的には自転車の重量が20㎏オーバーとなった車種まで出現し、本来のスポーツサイクルとしての方向性は失われ、フラッシャー自転車というジャンルへと変質して行った。さらに、1974年のオイルショックを境に、コスト高・高価格化・子ども達の車に対する憧れの減衰などの影響を受け、フラッシャーブームは収束した[1][2]

転換期[編集]

フラッシャーブームが終焉した1974年頃は、オイルショックによる不況もありジュニアスポーツ車にとっても苦境の時代であった[5]

しかし、この時期に、その後のジュニアスポーツ車の隆盛に欠かせない変速システムとして「ポジトロンシステム」(1974年)、PPS(POSITIVE PRE SELECT) システム(1976年)、FF(フロントフリー)システム(1975年)などがそれぞれ開発された(後述)。

スーパーカー自転車の時代[編集]

1975年から、漫画「サーキットの狼」の流行などを受けて、子ども達の間でスーパーカーブームが巻き起こる。このブームは自転車にも波及し、1977年ごろから、各社がスポーツカーのデザインや機能を取り入れたジュニアスポーツ車を発売した[6]。この時期の代表的な商品としては、モンテカルロブリヂストンサイクル)、ヤングホリデー(丸石サイクル)、サリー(ミヤタ)、スターレイカー(同)、スカイランサー(ツノダ)などがあげられる[5]。1984年にはブリヂストンサイクルが、イタリアの著名な工業デザイナージウジアーロのデザインによる「モンテカルロ・ジュージアーロ」を発売するなど、1980年代前半までは各社による旺盛な開発競争が続けられ、ほぼ毎年モデルチェンジが行われた。

終焉[編集]

こうして、紆余曲折はあったものの隆盛を極めたジュニアスポーツ車であったが、過剰な装備によってコストと重量が増加し、スポーツサイクルとしての魅力は失われてゆく。

80年代後半からのシンプルで実用性の高いシティーサイクルのヒットや、1982年に公開された『E.T.』の影響からBMXタイプの自転車が少年向けとして売れるようになった結果、80年代末から90年代初頭[注釈 1]にかけコスト面で劣るようになり、自転車各社はジュニアスポーツ車ビジネスから撤退する事となった。

特徴[編集]

当時の小中学生の憧れは自動車やバイクであった。その憧れに対するオマージュを自転車の各部機構に取り込むことによって、ジュニアスポーツ車の人気に拍車がかかったといえる[注釈 2]。全時代を通じて共通の要素としては、フレームのトップチューブ部に置かれたAT車の自動車のセレクターを模したシフターなどがあげられる。最初に流行したフラッシャー自転車は、自動車のフローフラッシャーを自転車に搭載したものである。次に流行したスーパーカー自転車の中には、リトラクタブルライト等の灯火機能や、自動車のマニュアルシフトレバーを模したHバターンのシフトレバーなどを搭載したものもあった[6]

フレームの色は黒が基本であり、車種によっては黒以外の色も用意されていたが、黒が人気だった[7]

電装品[編集]

フラッシャー自転車の灯火部品[編集]

フラッシャー自転車後部のフラッシャーは、当初の3灯から5〜8灯へと灯数を競うように増加されていき、さらにその下にテールランプやストップランプが装備された大型のフラッシャーも開発された[2]。フラッシャーの駆動は、当初は機械式モーターなどが用いられ、振動に弱かったが、のちにはIC(集積回路)が採用された。

前照灯は2灯式が主流だったが、その上または下に左右1灯ずつのウインカーが付けられ、後部のフラッシャーと連動するようになっていた。前照灯はダイナモからの給電を受けたが、それ以外の灯火部品は、後部のフラッシャーユニット内に格納された乾電池(単1電池×6〜8本)から給電された。しかし、当時は光源として白熱球(豆電球)が使用され、電池寿命は短かった[注釈 3]

スーパーカー自転車の灯火部品[5][編集]

1974年を境にフラッシャーを搭載した車種が発売されなくなると、乾電池を使用した灯火部品はいったん下火となり、ダイナモ駆動の2灯の前照灯が標準となった。1977年よりブリヂストンサイクルが販売を開始したモンテカルロシリーズも、当初は乾電池を搭載していなかった。

1978年にはスーパーカーブームを受けて、ミヤタよりはじめて格納式の前照灯「スーパーカーライト」を装備した自転車(サリージャストチェンジャー)が発売された。これは、バネ仕掛けで左右方向にライトが飛び出す仕組みであった。その後、ツノダは下方向に開く「スーパーライト」を開発するなど追随したが、最終的には各社とも自動車と同様上に開くデザインが主流となった。さらに開閉を電動化した前照灯ユニットが開発されるなど、開発競争が激化する。

ブリヂストン4灯式手動リトラクタブルライト (1981年式)

ナショナル自転車からはポルシェ・928のライトのデザインを取り入れて電動で起き上がる「ビームアップ」[6]ミヤタからは上に前照灯、下にフォグランプが開く電動式の「デュアルスーパーカーライト」、ブリヂストンサイクルからは左右にHIGHとLOWの電球を2灯ずつ計4灯組み込んで3段階の照度調節を可能にした「4灯式電動(または手動)リトライト[8]」などが開発された。しかし、スーパーカーブームの収束などもあり、格納式の前照灯は1983年頃にはほとんど搭載されなくなった[注釈 4]

その後もフロントライト多灯化の流れは続き、上位車種では、ウインカーなどを含め5〜10灯以上の電球やLEDを組み込んだフロントライトユニットが搭載されることも珍しくなかった[5]ナショナル自転車ではライトを軸にして設計を始めるという手法をとるなど、ジュニアスポーツ車では重要なフロントライトは安全装置というだけではなく、自動車のフロントマスクに相当する重要なパーツであった[7]

スーパーカー自転車のテールライトは、フラッシャー自転車ほど巨大なものではなくなったが、当時一般的となりつつあったLEDライトを複数搭載したものや、ストップランプ機能を有したものも使われていた。

これら以外にも、デジタル表示のスピードメータやシフト表示等、非実用的な電装が開発され、上位車種に搭載された。ナショナル自転車では電機メーカーとしての技術を活かし、LEDライトや液晶表示パネルなどを使用している[6][9]

これらの装備に必要な電力はダイナモによる供給では追いつかず、フラッシャー自転車同様、乾電池を多数搭載される場合があった。これらの乾電池は、外付けの電池ボックスや、シフター内部、あるいはトップチューブと一体化された電池ボックスなどに格納され、イルミネーションやデジタル表示、ブザー、前照灯(LOWライト)などの電源として使用された[8]。その結果、重量も再び重くなっていった。

ハンドル[編集]

ジュニアスポーツ車の特徴とも言えるのがセミドロップハンドルと呼ばれるハンドルバーである。当時のカタログには「セミドロップアップ共用ノースロード型[8]、あるいは「ラウターワッサー」などと記載されていることもある。 上下逆向き(アップ)に組むことも想定されており[注釈 5]、当時の販促写真にも低サイズ車[注釈 6]はアップハンドルの写真が掲載されている例が多い[8]。 他の機能と違い初期から変更なく終焉を迎えたが、今ではこのタイプのハンドルバーは希少種となっている。

ブレーキ[編集]

ブレーキは、電飾と違い安全装置という実用性があるために、保護者受けが期待できたことと、メカニカルな要素が子供受けした事もあり、メーカーは開発競争に力を入れることとなった。ディスクブレーキの導入はフラッシャー自転車の時代である1971年に、シマノにより実現した[10]ナショナル自転車ではシマノと共同開発した油圧ディスクブレーキを搭載した[3][6]ブリヂストンは、バンドブレーキドラムブレーキの利点を組み合わせて制動性能を高めた「ダイネックスブレーキ」を独自開発して、1977年ごろから多くの車種に搭載した[5][8]。一般的な自転車の前輪はキャリパーブレーキであったが、ジュニアスポーツ車の上位機種では前輪にもバンドブレーキやディスクブレーキを搭載する車種もあった。

スピードメーター[編集]

スピードメーターは一部の車種では標準装備であったが、後付けも可能であった。構造は、当初はメカニカルな機構によるものが主流であり、前輪のハブから、内部でワイヤーが回転するスピードメーターワイヤーをメーターまで引き込んでいた(自動二輪車や四輪車のそれと同じ)。1980年代になると、マグネットセンサーを用いた非接触式のものも使われるようになった。

タイヤ[編集]

他のアイテム同様、自動車へのオマージュはタイヤにも取り入れられ、ラジアルタイヤの開発、投入も行われた。ラジアル構造の採用だけではなく、タイヤ側面にホワイトレターの装飾が施されたり、タイヤのトレッドパターンも当時の自動車用のそれと似たものが採用された。

変速システム[編集]

シフターはトップチューブ上に取り付けられ、自動車のフロアシフトを模したものであった。様々なポジション表示方法があり、単にレバー横に目盛りがあるもの、別途機械式のインジケーターが付くもの、電子式でLEDで表示されるものなどがあった。シフトチェンジすると電子音が鳴るもの、トップギアだけ離れた場所に表示されるものなどがあった。

1970年代に入りシフトレバーを一段動かせばギアが一段変わるインデックス式が実用化された[注釈 7]シマノでは1974年に世界初となる外装変速機の位置決め機構「ポジトロンシステム」を実用化した[11]。さらに1976年には「自転車が停止した状態で、あらかじめレバーを選択したいギアのところに入れておけば、発進時の踏み出しの際に自動的にギアが変速する」というPPS(POSITIVE PRE SELECT)システムの実用化にも成功し[11]、これを自動車のセレクターを模したデザインでジュニアスポーツ車に搭載して大きな人気を得た[12]。この仕組みは、後に「シマノインデックスシステム (SIS)」、そして現在ロードバイクで一般的なデュアルコントロールレバーなどへと発展していく。自動車のMTのようにH型のシフトパターンで変速を行うものもあった。これらではもはやメカニカルな機構でシフトワイヤーを操作することは難しく、電動モーターによる変速機構が採用されていた。これも現在ロード、マウンテン共にハイエンドモデルで採用されているDi2等の電動変速システムに発展していったと言える。

また、シマノが開発した『FF System』が搭載された自転車であれば、ペダリングしていなくても自転車が進んでいれば外装変速機であっても変速可能であった。仕組みは、フリー機構ボトムブラケット側に入っており(Front Free)、自転車が進んでいればペダリングに関係なくチェーンが回転するので、変速できるという機構である。また、変速レバーを入れた後にクランクを逆回転させてもチェーンは外れない利点もある。

ジュニアスポーツ車ではフロントのチェーンリングは多くの場合シングルが採用され、また比較的重い車重をカバーするために、リアスプロケットボスフリーには非常にワイドレシオのものが採用されることが多かった。その結果として、通常5〜6速であるが巨大なロー側のギアが装着され、また、大きな変速幅を吸収する長いアームを持ったディレーラーが搭載されているという特徴を持つ。例えば1980〜81年のブリヂストンモンテカルロには、ワイドなギア比を謳う「スーパーギア」が搭載されており、チェーンリングは46T、リアスプロケットは14T×17T×22T×28T×38Tの5段と、非常なワイドレシオとなっている[8]

近年のプロスポーツ用自転車は電動変速機を用いることが普通になっているが、これも1979年丸石自転車が電動変速システムとして発売した「ヤングホリデー・PCスーパー5FFP」が世界初である。

自動注油システム[編集]

ナショナル自転車では手元のボタンでチェーンにオイルを注す『チェーンオイルボックスシステム』を搭載した[3]

影響[編集]

第一次オイルショックで高価格が問題視されたことで各社が自主規制を行ったが、スーパーカーブームの終焉、ブリヂストン・ロードマンの発売[7]マウンテンバイク(前記のBMX含む)のブーム到来もあって販売台数が落ち込み生産も終了した[3]。現代では、廃業した自転車店などから発見された車両が取引されるなど、コレクターアイテムとなっている[7]

技術的な影響としては、毎年モデルチェンジが行われるという開発競争[3]により、各社の技術力が向上した。特に、シマノは変速システムの機構をロードバイク用の変速機に応用(ブレーキ機能部分にシフター機能を組み込み、ハンドルから手を離すことなくシフトを可能にするシステムを開発)することで、世界的なメーカーとして躍進した。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1991年のブリヂストンサイクルの販売店用カタログには収載されている。
  2. ^ 1984年のブリヂストンサイクル販売店用カタログ「モンテカルロ・ジュージアーロ」の説明には「オートバイにあこがれる子供たちの夢を、自転車で実現させました。」との記載がある。
  3. ^ 当時は、軽量なリチウムイオン電池LED電球が実用化されていなかった。
  4. ^ ブリヂストンの場合、リトラクタブルライトが搭載されたモデルは、1979年型から1981年型の3年間である
  5. ^ 校則などによりセミドロップハンドルが禁止され、購入時にやむなくアップハンドルとして組んだとの逸話も残っている。
  6. ^ カタログ、メーカーにもよるが、通例24インチまたは22インチ以下の車種はアップハンドルの写真が掲載されていた。
  7. ^ それまでの変速機はフリクション式で、レバーの引き具合とギアの変速はライダーの勘によって行われていた。

出典[編集]

  1. ^ a b 安田誠『カッコいいもの 80s』一迅社、2012年、14-17頁。ISBN 978-4-7580-1279-9 
  2. ^ a b c d e f 内藤 常美『日本懐かし自転車大全』辰巳出版〈タツミムック〉、2020年9月26日、6-50頁。ISBN 4777826740 
  3. ^ a b c d e 昭和すごかった “やり過ぎ”上等「スーパーカー自転車」はいかに少年の心をつかんだのか (1/4) - ねとらぼ
  4. ^ 中島秀憲 2017.
  5. ^ a b c d e 内藤 常美『日本懐かし自転車大全』辰巳出版〈タツミムック〉、2020年9月26日、54-77頁。ISBN 4777826740 
  6. ^ a b c d e 「【プレイバック昭和】54年 スーパーカー自転車登場」『産経新聞』、2019年11月26日、大阪夕刊、2面。
  7. ^ a b c d 昭和すごかった “やり過ぎ”上等「スーパーカー自転車」はいかに少年の心をつかんだのか (3/4) - ねとらぼ
  8. ^ a b c d e f 『ブリヂストンサイクル販売店用カタログ 1981年版』ブリヂストンサイクル、1981年。 
  9. ^ 昭和すごかった “やり過ぎ”上等「スーパーカー自転車」はいかに少年の心をつかんだのか (2/4) - ねとらぼ
  10. ^ メカニカルディスクブレーキ」, SHIMANO 製品の歴史
  11. ^ a b 位置決め機構を搭載したリアディレイラー ポジトロン」, SHIMANO 製品の歴史
  12. ^ 山口和幸『シマノ 世界を制した自転車パーツ : 堺の町工場が「世界標準」となるまで』光文社、2003年、127-129頁。ISBN 4-334-97402-3OCLC 54636316 

参考文献[編集]

関連項目[編集]