小平事件

小平事件(こだいらじけん)は、1945年昭和20年)から1946年(昭和21年)にかけて、東京都とその周辺で発生した連続強姦殺人事件である。小平義雄事件とも称する。

加害者の名字の読み方(だいら)を世間が「だいら」と勘違いしたことが事件名の由来であり、東京都にある小平市(事件当時は北多摩郡小平町)はこの事件と関係はない。[要検証]

概要[編集]

太平洋戦争末期から敗戦直後の東京において、言葉巧みに若い女性に食糧の提供や就職の斡旋を持ちかけ、山林に誘い出したうえで強姦して殺害するという手口で行われた連続殺人事件である。当時は戦中・戦後の食糧難で、ラジオ放送のインタビューの内容が「何を食べているか?」、子供へのインタビューにおいて最近嬉しかったことを聞くと「パンが配給された」と回答するほど、人々が食を求めていた時代であり、食糧の提供や就職斡旋といった言葉は魅力的だった。

初めの強姦・殺人事件から1年以上を経た1946年(昭和21年)8月17日、7人目と思われる被害者女性が遺体となって発見されたが、直前にこの女性と会っていた小平 義雄おだいら[要検証] よしお、当時41歳)が逮捕され、犯人であると判明した。小平が他の事件への関与も自供したことから、一連の連続強姦殺人事件が発覚した。小平は10件の事件について起訴された。小平は、否定した3件が証拠不十分で無罪、7件が有罪となった。小平は40名の女性に関係を迫り、殺さなかった30名は「人目につくおそれのあったこともあるが、大部分が素直にいうことを聞いたから」という[1]1948年(昭和23年)11月16日[2]、小平に対する死刑判決が確定し、翌年10月5日に宮城刑務所で刑が執行された[3]

なお、最後の第7の事件で被害者となった17歳女性は、大相撲の幕内格行司・式守伊三郎(後の立行司第24代木村庄之助)の実娘だった。

女性へ職の斡旋をして山林に誘い出して殺害する似たような事件が1947年(昭和22年)に発覚したが、これは「第二小平事件」と呼ばれた。また1971年(昭和46年)に発生した連続殺人事件の犯人・大久保清は「群馬の小平」とも言われた[4]

一連の事件[編集]

  1. 1945年(昭和20年)5月25日、勤務していた海軍衣糧廠の女子寮に侵入して21歳女子隊員を強姦のうえ殺害。憲兵隊が捜査の際に、別の男に嫌疑がかかった隙をみて小平は退職をして寮を抜け出した。
  2. 同年6月、東武鉄道新栃木駅で31歳女性に農家を案内すると言って山林に誘い、3度強姦したのちに絞殺、現金70円と腕時計を奪った。遺体は9月10日に発見された。
  3. 同年7月12日、渋谷駅で22歳女性に農家を案内すると言って山林に誘い出す。女性は持っていた小刀を突きつけ対抗するが、逆に奪い取って馬乗りになって絞殺。現金40円入りの財布と腕時計を奪った。
  4. 同15日、池袋駅で21歳女性に農家を案内すると言って雑木林に連れ込んで強姦、絞殺。現金60円と下駄1足を奪った。遺体は11月5日に白骨死体となって見つかった。
  5. 同年9月28日、東京駅で21歳女性に農家を案内すると声をかけ、山村に連れ込んで強姦・絞殺。現金300円と、物々交換のために持って来ていた縮緬洋服を奪った。遺体は11月1日に発見された。
  6. 同年12月29日、東武鉄道浅草雷門駅で21歳女性に農家に案内すると声をかけ、栃木県の山村に連れ込んで強姦・絞殺。現金130円入りの財布リュックを奪った。
  7. 1946年(昭和21年)8月6日、就職の斡旋をすると6月18日に声をかけていた17歳女性を公園裏に連れ出して乱暴し、殺害。8月17日に遺体が発見された。この事件では6月に声をかけられた被害女性が小平と住所を交換し、8月4日に彼女の自宅を訪ねて母親が小平と会っていたため、8月6日に女性が小平と出かけたことが判明し、逮捕された。

小平義雄[編集]

小平 義雄
個人情報
生誕 1905年1月28日
日本の旗 日本栃木県栃木市
死没 (1949-10-05) 1949年10月5日(44歳没)
日本の旗 日本宮城県仙台市宮城刑務所
死因 刑死(絞首刑
殺人
犠牲者数 判決7人(服役済みの単体の単純殺傷行為と海外戦地での犯行は含まない)
犯行期間 1945年5月25日1946年8月6日
日本の旗 日本
逮捕日 1946年8月20日
司法上処分
刑罰 死刑
有罪判決 殺人罪強姦罪など
判決 死刑
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人物[編集]

1905年明治38年)1月28日生まれ。子供の頃、吃音症のある友達の真似をしているうちに吃音がうつった。1923年大正12年)6月に横須賀海兵団に入団、横須賀の売春婦を相手に初体験、寄港地では娼婦を買い漁ったという。1928年の山東出兵で海軍陸戦隊員として済南事件に参加、現地で日清紡績の工場警備にあたったが、市街戦も経験している。中国では、頻繁に他の兵士らと民家に押入り、婦女暴行妊婦の殺害などを行っていたという[5]。1929年5月上司への不満を理由に海軍三等機関兵曹として退役。この年には戦時の功績で勲八等旭日章を受けている[6]。その後小平は結婚したが、浮気相手である女性に子供を産ませていた。1932年(昭和7年)7月、それを知った妻が小平から離れて実家に戻ったところ、逆上した小平は妻の実家を襲撃、鉄棒で義父を殺害し、6人を負傷させた。この殺傷事件で小平は懲役15年の有罪判決を受けたが、二度の恩赦によって1940年(昭和15年)に仮出所した。

海外出兵時の強姦・一般人殺害といった犯罪経験を戦後の犯行と結びつける見解もある[7]。戦後の連続強姦殺人での逮捕後の取調べでは、強姦の模様を喜々として語り、自ら自身の一物を見せて「人と変わらんでしょう」と言ったと伝わる。また、取り調べおよび公判での本人質問の際に「戦争の時にわしよりむごいことをした連中を大勢知っていますが、平和なときにわしだけひどいことをした者はいないと思います。全く人間のすることじゃありません」と答えた。

裁判[編集]

一審から上告審を通して弁護人は小平本人の希望で元司法次官、元大審院部長の三宅正太郎博士が弁護人を務めた。公判時には当時は幅広く許可されていた法廷内での写真撮影及び新聞記者によるインタビューには一切応じず、常に深編み笠を被って顔を隠し続けた他、一審における判決公判時には本人及び三宅正太郎弁護人による『法廷内での写真撮影及び取材活動の一切の禁止』を求める申し立てが裁判長によって認められた。この申立てが認められた事がその後の裁判所内における撮影、録音の禁止、取材活動の制限に繋がったと指摘されている。

死刑[編集]

死刑判決直後は粗暴な態度が目立った小平であったが、面会に来た妻が自責の念を泣いて告白したことや、また教誨師との交流を通じて、次第に態度を改めていった。1949年(昭和24年)10月5日に死刑執行[3]。当日、教誨師に対し「こういう落ち着いた日に死ねるのは幸福だ」と言った[8]。そして、「自分は荘厳な気持ちですべてを清算し、静かな気持ちで死んで行きます。長い間、お世話になった人々によろしくお伝え下さい。家族の者もどうぞ天命を完うしてください」とする遺書と「亡きみ霊、赦し給へし過去の罪、今日を最後に深く果てなん」という辞世の句を残した。

映画化[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 礫川全次『戦後ニッポン犯罪史』批評社、2000年6月10日、18頁。 
  2. ^ 村野 1993, p. 21.
  3. ^ a b 村野 1993, p. 13.
  4. ^ 映画「男はつらいよ」には渥美清演じる車寅次郎が、「助平の始まりは小平の義雄」と語る場面がある。
  5. ^ 「新評」1971年(昭和46年)1月号、予審調書:「上海事変当時、太沽では強姦のちょっとすごいことをやりました。仲間4、5人で支那人の民家へ行って父親を縛りあげて、戸棚の中へ入れちまって、姑娘を出せといって出させます。それから関係して真珠を取ってきてしまうんです。強盗強姦は日本軍隊のつきものですよ。銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で刺して子供を出したりしました。私も5、6人はやっています。わしも相当残酷なことをしたもんです。」
  6. ^ 別冊宝島編集部 編『身の毛もよだつ殺人者たち』(株)宝島社、2006年11月25日、188頁。 
  7. ^ 斎藤充功『戦後日本の大量猟奇殺人』ミリオン出版/ 大洋図書、2014年10月27日、27頁。 
  8. ^ 「小平の死刑執行」『読売新聞』、1949年10月6日、朝刊、2面。

参考文献[編集]

  • 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社、1993年11月1日。ISBN 4-7966-0736-6 

関連項目[編集]

女性を標的にした連続殺人犯