小山邦太郎

小山邦太郎
こやま くにたろう
小山邦太郎胸像(長野県小諸市揮毫三木武夫によるもの)
生年月日 1889年11月16日 
出生地 日本の旗長野県北佐久郡小諸町(現長野県小諸市)
没年月日 (1981-03-24) 1981年3月24日(91歳没)
死没地 日本の旗東京都板橋区 (日本大学医学部附属板橋病院)
出身校

長野市立甲種商業学校(現長野県立長野商業高等学校)卒業

官立神戸高等商業学校(現神戸大学)中退
前職 実業家陸軍軍人
所属政党 (無所属→)
(立憲民政党→)
(翼賛政治会→)
(日本進歩党→)
(改進党→)
自由民主党(松村・三木派)
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
勲三等瑞宝章 
参議院永年在職議員 
小諸市名誉市民 
恩賜賞(大日本蚕糸会) 
自由民主党顧問
子女 小山邦武(子)
親族 小山久左衛門(父)
小山敬三(弟)
瀬在幸安(娘婿)
井出一太郎(娘婿)
井出正一(孫)
井出亜夫(孫)
井出庸生(曾孫)
小山威雄(分家)

選挙区 長野県選挙区
当選回数 3回
在任期間 1956年7月8日 - 1974年7月7日

選挙区 旧長野2区
当選回数 6回
在任期間 1928年2月20日 - 1945年12月18日

当選回数 1回
在任期間 1954年4月1日 - 1956年4月18日

当選回数 2回
在任期間 1923年9月27日 - 1928年

在任期間 1961年 - 1962年

その他の職歴
陸軍政務次官
1945年5月15日 - 1945年8月17日
海軍参与官
1940年1月16日 - 1940年7月22日
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小山 邦太郎(こやま くにたろう、1889年明治22年〉 11月16日[1] - 1981年昭和56年〉 3月24日[1])は、日本政治家実業家戦前長野県会議員から衆議院議員(6期)。戦後参議院議員(3期)。参議院永年在職議員[2]。初代小諸市長[3]位階正三位勲等勲一等

経歴[編集]

長野県北佐久郡小諸町生まれ[4]。小諸高等小学校を経て、長野市立甲種商業学校卒業。小諸高等小学校在学時には、自由主義教育者の伊藤長七の影響を受けた。

戦前は明正会・立憲民政党に所属したが戦後公職追放され、追放解除後は旧民政党左派の松村謙三粟山博鶴見祐輔中村三之丞松浦周太郎川崎末五郎らと行動をともにした。政界復帰後は自由民主党松村・三木派に所属した。

生涯[編集]

生い立ち[編集]

1889年(明治22年)-11月16日長野県北佐久郡小諸町(現長野県小諸市)に実業家小山久左衛門と梅路(うめじ)夫妻の長男として生まれる。父・久左衛門の幼名であった邦太郎と命名される。実家は江戸時代から醸造業鰹節畳表を取り扱い様々な事業を行う豪商であるとともに御牧ヶ原に広大な土地を所有し開墾事業を行う豪農でもあった。また、父の久左衛門は商売のみならず日本赤十字社への献金や小諸義塾への支援、小諸町長を務めるなど公共事業に注力した篤志家でもあった。

父・久左衛門の経営する合資会社酢久商店

幼少期~学生時代[編集]

その後、当時流行していた結核に感染。同校を退学し東京帝国大学医科大学付属医院(現東京大学医学部附属病院)に入院。院長の佐藤三吉による当時最先端の手術が行われ、肋骨を失いながらも奇跡的に回復する。

政界進出まで[編集]

長野県会議員・衆議院議員時代[編集]

小諸市長・参議院議員時代[編集]

政界引退後[編集]

晩年[編集]

死後[編集]

政策・主張[編集]

政見綱領(衆議院議員時代)[編集]

  • 海軍軍縮問題対策[4]
  • 対支問題の根本的解決[4]
  • 経済的並に科学的国防計画の樹立[4]
  • 財政難局の打開策[4]
  • 産業政策の確立[4]
  • 教育の実際化と手工芸の発展策樹立[4]

エピソード[編集]

日中戦争の和平工作[編集]

邦太郎と会談した広東駐屯軍司令官の柴山兼四郎陸軍少将(当時)

1937年(昭和12年)、日中戦争が開戦し事態が泥沼化する中、米内内閣海軍参与官に就任した邦太郎は、同年5月に前線への視察を計画した。計画では北支(華北)を視察する予定であったが、急遽広東を経由し海南島に向かい、広東駐屯軍司令官で後に陸軍次官を務める柴山兼四郎少将(当時)と秘密裏に会談し和平への道を探った。柴山は盧溝橋事件の際に陸軍省軍務局軍務課長で、日中戦争の不拡大を主張していたが、当時関東軍参謀長だった東條英機の戦線拡大方針と意見が衝突。東條が軍部を支配するようになると柴山は前線である広東駐屯軍の司令官に半ば左遷された。こうした経緯を持つ柴山は蔣介石を支援し日中が和平を結ぶべききだという邦太郎と考えを同じくしていたため小山と意気投合した。

和平工作を依頼した東久邇宮稔彦王
和平工作を計画した頭山満

柴山との会談を終え日本に帰国した4年後、1941年(昭和16年)、邦太郎がかねてより尊敬し交流があった頭山満が、東久邇宮稔彦王より蒋介石との和平工作を依頼される。これを知った邦太郎は頭山のもとを訪れ、共に和平工作の計画を練った。結果、頭山秀三(満の息子)と柴山少将、邦太郎の三人で蒋介石と和平の予備折衝を行い、その後に頭山本人が政府要人とともに蔣介石と会談し和平講和を結ぶという計画に至った。計画は順調に遂行され、いよいよ小山も予備折衝に向け日本を出国しようとしたが、東條英機首相に東久邇宮が飛行機の手配を依頼したところ、「勝手な和平工作は統帥権を犯すことになる」と拒絶され計画は中止、和平工作は幻となった。

反軍演説に共鳴[編集]

斎藤隆夫
反軍演説を行った斎藤隆夫衆院議員

1940年(昭和15年)2月2日帝国議会衆議院本会議にて、邦太郎と同じく立憲民政党に所属する斎藤隆夫衆議院議員が、日中戦争に関し戦争政策を横暴に押し進める陸軍や政府を熱烈に批判した反軍演説を行った。これに対し、陸軍や各政党は「斎藤の演説は聖戦を冒涜するものだ」と斎藤を激しく非難し、同様に斎藤の所属する立憲民政党も厳しく批判された。これに対し斉藤や邦太郎と同じく立憲民政党に所属する小山松寿衆議院議長(邦太郎と同郷で遠縁にあたる)は陸軍や各政党による激しい非難から党を守るため衆議院書記官長大木操に斎藤の演説のうち軍部への批判が含まれる全体のおよそ三分の二の削除を議長の職権で命じ、遂に帝国議会衆議院本会議で斎藤の除名処分の採決を行うにまで至った。

立憲民政党所属の邦太郎は、当然斎藤の除名に賛成する党の方針に従わなければならなかった。しかし、邦太郎は斎藤の反軍演説に賛同し共鳴していたため、斎藤の除名には反対の立場であった。そこで仮病を用いて採決を欠席。欠席し棄権する事より斎藤の除名に事実上反対した。採決当時現役の立憲民政党所属議員で斎藤の除名に事実上反対したのは小山ただ一人であった。また、現職の海軍参与官かつ立憲民政党の中堅議員たる小山が斎藤の除名に事実上反対したため党内外に大きな波紋が広がった。

邦太郎の遠戚で反軍演説を処理した小山松寿衆院議長

邦太郎の事実上の除名反対を知った松寿は、今度は邦太郎が陸軍や各政党から非難を受けてしまうことを心配し、除名に反対する考えを改めさせるよう説得を行うため、党幹事長で邦太郎と親交がある内ヶ崎作三郎衆議院議員を邦太郎の事務所がある東京府東京市四谷区(現東京都新宿区)に向かわせた。しかし邦太郎は毅然とした態度でこれに応じ、遂に内々崎は説得を断念した。しかし、邦太郎側もこれ以上党に迷惑はかけられないとして吉田善吾海軍大臣に海軍参与官辞任の意向を伝える。しかし米内光政首相と同じく海軍条約派の一人で、陸軍を厳しく批判し邦太郎と考えを同じくしていた吉田は、邦太郎の発言に手を振り「それは政党内部の問題であり、海軍省には無関係です」と強く邦太郎を慰留した。これにより邦太郎は海軍参与官の辞任を思いとどまった。

家族[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』208頁。
  2. ^ 参議院会議録情報 第094回国会 本会議 第10号
  3. ^ a b c 小諸市の名誉市民”. 小諸市. 2017年1月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g 『粛正選挙代議士名鑑』85頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月17日閲覧。
  5. ^ 神戸大学 電子図書館システム

参考文献[編集]

  • 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
  • 佐藤誠三郎松崎哲久 共著『自民党政権』中央公論社、1986年。
  • 『小山邦太郎の足跡 』小山邦太郎先生伝刊行会、1979年。
  • 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年。
議会
先代
館哲二
日本の旗 参議院予算委員長
1961年-1962年
次代
湯沢三千男
先代
田中亮一
日本の旗 帝国議会衆議院建議委員長 次代
青山憲三
公職
先代
新設
長野県小諸市長
1954年 - 1956年
次代
町田増夫