富木謙治

富木 謙治(とみき けんじ、1900年3月15日 - 1979年12月25日)は、日本武道合気道柔道)家。教育学者(武道論)[1]日本合気道協会秋田県角館町(後の仙北市)出身。

満州建国大学教授早稲田大学教育学部教授を歴任、合気道創始者・植芝盛平の高弟として成立期の合気道に理論面で影響を与え、自ら考案した競技合気道の普及発展に努めた。 講道館柔道創始者・嘉納治五郎柔術を柔道に昇華させたように、合気道をより昇華させることを目指し、合気道の乱取り稽古を考案し導入した。富木の合気道は乱取り稽古を行うなど、他の会派と異なる点も多く、区別するため、「富木流合気道」、「富木合気道」と通称される(ただし、富木自身はこの呼称を用いておらず、「新合気道」「合気道競技」と命名していた)。陸軍中野学校の教官を務めた時期がある。

経歴[編集]

1900年明治33年)、3月15日、秋田県仙北郡角館町横町(現 仙北市)で地主、富木庄助・たつ夫妻の長男として誕生。たつの父は日本画家平福穂庵[2]

1909年(明治42年)頃、柔道場に入門、柔道の修行を始める。

1914年大正3年)、秋田県立横手中学校(現在の秋田県立横手高等学校の前身)入学。在学中は柔道部で活躍。

1919年(大正8年)、柔道初段位を取得。

1924年(大正13年)、早稲田大学政治経済学部入学後に、講道館に入門。在学中は柔道部で活躍、嘉納治五郎の謦咳に接し影響を受ける。

1926年(大正15年)、植芝盛平の技に魅せられ入門[3]

1927年昭和2年)、大学院進学、柔道五段に昇段[3]

1929年(昭和4年)、宮城県電気局就職。[3]

1931年(昭和6年)、郷里・秋田県立角館中学校(現在の秋田県立角館高等学校の前身)に赴任。

1936年昭和11年)、満州国に赴き、関東軍等で合気武道(当時の合気道の名称)を指導。

1938年(昭和13年)、建国大学助教授に就任。

1940年(昭和15年)、植芝盛平から合気道界初の八段を授与される[3]

1941年(昭和16年)、建国大学教授と成る[3]

1945年(昭和20年)、日本敗戦、ソ連軍によりシベリア抑留

1948年(昭和23年)、日本に帰国[3]

1949年(昭和24年)、早稲田大学体育部非常勤講師に就任[3]

1952年(昭和27年)、講道館護身術制定委員の一人に選ばれる。

1954年(昭和29年)、早稲田大学教授に就任。

1955年以降、自衛隊徒手格闘の制定に協力。

1958年(昭和33年)、早稲田大学合気道部設立、初代部長就任。『合気道入門』刊行[4]

1961年(昭和36年)、合気道競技をほぼ確立。

1964年(昭和39年)、早稲田大学教育学部教育学科に「体育学専修」開設、主任教授に就任[4]

1971年(昭和46年)、講道館より八段位を授与される。

1974年(昭和49年)、日本合気道協会を設立。

1975年(昭和50年)、日本武道学会副会長に就任。

1979年(昭和54年)、2月25日、結腸癌のため死去。享年79歳。

弟子[編集]

著作[編集]

  • 柔道体操(1954年)
  • 合気道入門(1958年)
  • 新合気道テキスト(1964年)

脚注[編集]

  1. ^ 志々田文明. “ししだふみあき研究室 Shishida Lab About Me”. 2018年9月5日閲覧。 “私(志々田 文明)は1972年、早稲田大学第一文学部哲学科を卒業した。在学中は多少サルトルの哲学書を読んだ。体育局合気道部の部員として四年間を送った。部で出会った富木謙治師範の人格と教育学者(武道論)としての学識に傾倒したことが、その後の人生を決めたように思う。”
  2. ^ 「平福家略系図」(仙北市立角館町平福記念美術館編集・発行 『平福百穂を愛した人々』 2018年10月2日、pp.118-119)
  3. ^ a b c d e f g 『武道論』284頁
  4. ^ a b 『武道論』285頁

参考文献[編集]

  • 富木謙治『武道論』 1991年、大修館書店、ISBN 4469262153

関連項目[編集]

外部リンク[編集]