宮川信吉

宮川 信吉(みやがわ のぶきち、天保14年(1843年) - 慶応3年12月7日(1868年1月1日))は、武蔵国多摩郡出身の新選組隊士。天然理心流。局長・近藤勇の従弟。諱は頼温(よりあつ)。名の読みはのぶよしもしくはしんきちとする資料もある。

武蔵国多摩郡大沢村宮川弥五郎の次男として生まれる。母リノは近藤勇の叔母(近藤の父・宮川久次郎の妹)。

天然理心流道場試衛館に入門して剣を学び、書も習う。

慶応元年(1865年)4月、土方歳三伊東甲子太郎斎藤一藤堂平助が江戸にて隊士を募集した際、新選組に入隊。このとき上洛に際して土方の秘書を務めた。

慶応3年(1867年)6月の新選組幕府召抱えでは平同士として記載され、油小路事件において大石鍬次郎他2名と共に伊東殺害に関わったとされる(『史談会速記録阿部十郎談話)が、12月の天満屋事件により戦死と伝わる。享年25。墓碑は京都・壬生光縁寺東京三鷹竜源寺にあり、光縁寺の過去帳によれば、死亡日は天満屋事件の翌日12月8日とされている。竜源寺の墓碑によると死亡日は事件当日、戒名は良忠院義栄道輝居士とある。なお、横倉甚五郎も「京都にて討死」と記し、板橋区の新選組墳墓にも名が残されている。