宮地久衛

宮地 久衛(みやじ ひさえ[1]、1876年11月6日 - 1939年2月18日[2])は、日本陸軍軍人[2]陸軍大佐[3]社会事業家[2]部落解放運動家[3]

生涯[編集]

1876年11月6日、高知県幡多郡小筑紫村田ノ浦で宮地重政の長男として生まれた。祖父の宮地重勝は、土佐国幡多郡津ノ川の郷士であり、安政3年(1856年)伊賀家に仕え、田ノ浦村や津賀川村(現小筑紫町都賀川)の庄屋戸長を勤めた[2]

3歳で母と離別し、祖母に育てられた。1892年7月に中村小学校高等科を卒業した。同年9月に高知海南学校へ入学したが、学資が足らず2年で退学した。1896年に陸軍に入営し、陸軍士官学校騎兵実施学校などに学んだ[2]。1901年11月22日、陸軍士官学校(13期)を卒業し[4][5]、1902年6月23日[5]騎兵少尉となり、日露戦争では騎兵第15聯隊付として出征した[3]聯隊副官師団副官、陸軍通信学校軍用鳩研究会幹事などを歴任した。1928年、陸軍大佐に進み、騎兵第1聯隊長に補職された。1930年8月待命(退職)となった[2]

この間、1920年に帝国公道会に入った。1921年に副会長で同郷の大江卓が死没すると、その遺志を継いで軍務の傍ら融和事業に尽力した。1927年に財団法人中央融和事業協会の融和部長(のち理事[3])となった。陸軍退職後、融和運動に専念し、融和講習会の講師として日本全国をまわった。1930年には東京府下に兄弟荘を建てた。1932年7月には東京社会事業協会の融和部長となった。また移民問題調査のため満洲に渡り、匪賊抗日兵)を帰順させたり、家理教(チャリ)を助成指導したり、東光会を設立したりするなど、日本と満洲の親善を図り、満洲移民による融和事業の拡大に邁進した。1939年2月18日東京で死去[2]世田谷区代田の自宅で病死した[3]。62歳であった[2]従四位勲三等功五級。墓は多磨霊園にある[3]

1941年11月、全国有志が発起して「宮地先生留魂碑」を建てた。高さは一丈三尺(4メートル近く)、題字は前内閣総理大臣平沼騏一郎が揮毫した。兄弟荘に建立した[2]

1943年、宮地先生記念事業会が『宮地久衛大佐伝』を刊行した[2][6]

兄弟荘[編集]

1931年7月3日、徳富蘇峰が兄弟荘を訪れた。そこは宮地久衛が融和事業のために営む施設であった。敷地は160坪。建物は2室で、クラブ用の10畳間と、主人の居室の8畳間とがあった。蘇峰から見て如何にも質素であった。敷地に7間(13メートル近く)の柱を建て国旗を掲げていた。遠くからも目印になっていた[7]

兄弟荘に関連して次のような逸話が語られた。兄弟荘がある地域には、江戸時代に特別待遇を受けた部落があった[8]。従来差別を受けた部落であった[9]。明治維新後、明治天皇はここで兎狩りを行なった。1881年に初めて行なった際、天皇側近の宮内官たちは、そこに御野立所(天皇の休憩所)を設けることを憚り、遠慮すべきかどうすべきか悩んで議論した。なかなか決せず、やむなく明治天皇の判断を仰いだ。すると明治天皇は少しも躊躇せず、ただちに言った。「朕は兎のいるところならば何処へでも行く。またその村民も他の村民と同様に、それぞれ奉仕させるがよい」[8]、「彼らの中には屈強の者もあろう。勢子に採用せよ」[7]。これによって、そこへも御野立所を設け、そこの村民にも役割を与えて奉仕させた[8]。一視同仁(人を差別しない)の尊き御言葉、同胞融和の大御心とたたえられた[9]

1930年4月20日、皇族東久邇宮が当地を訪れ、明治天皇の聖蹟を巡り、行幸当時の兎狩りの様子を聴き取った。感激して歓迎する所謂部落の人々に会釈を賜った[9]。宮地久衛は、明治天皇の一視同仁の思し召しを奉戴し、同年8月、軍職を投げうって融和事業に身を投じた[7]。同年、兄弟荘を建てた[2]

脚注[編集]

  1. ^ 宮地久衛 | 人物検索”. 徳富蘇峰記念館. 2020年10月7日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k 近代、現代編-中央で活躍した人々-宮地久衛”. 宿毛市史. 高知県宿毛市. 2020年10月7日閲覧。
  3. ^ a b c d e f 宮地久衛”. 歴史が眠る多磨霊園. 2020年10月7日閲覧。
  4. ^ 山崎正男編『陸軍士官学校』秋元書房、1969年、233頁。
  5. ^ a b 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年、175頁。
  6. ^ 宮地先生記念事業会『宮地久衛大佐伝』1943年、国立国会図書館デジタルコレクション蔵書(本文はインターネット未公開につき、目次・書誌情報のみ)。
  7. ^ a b c 徳富蘇峰『読書人と山水』1932年、397-398頁、国立国会図書館デジタルコレクション蔵書208コマ目-209コマ目。
  8. ^ a b c 児玉四郎『明治天皇の御杖』1930年、114-115頁、国立国会図書館デジタルコレクション蔵書81コマ目
  9. ^ a b c 同和奉公会編『同和事業年鑑 昭和16年度版』1937年、1-2頁、国立国会図書館デジタルコレクション11コマ目