實川延一郎

じつかわ えんいちろう
實川 延一郞
實川 延一郞
1923年
本名 澤ノ井 增吉
別名義 市川 福甁
市川 廣藏
生年月日 (1875-07-21) 1875年7月21日
没年月日 (1940-04-10) 1940年4月10日(64歳没)
出生地 日本の旗 日本 京都府京都市下京区四条新町東入ル月鉾町
死没地 日本の旗 日本 京都府京都市
身長 153.0 cm
職業 映画俳優
ジャンル 歌舞伎劇映画時代劇剣戟映画サイレントトーキー
活動期間 1881年 - 1937年
配偶者
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實川 延一郞(じつかわ えんいちろう、新字体:実川 延一郎[1][2][3][4][5][6]1875年明治8年)7月21日 - 1940年昭和15年)4月10日)は、日本映画俳優歌舞伎役者[1][7][8][2][3][4][5][6]市川 福甁(いちかわ ふくべ、市川 福瓶)や市川 廣藏(いちかわ ひろぞう、市川 広蔵)[1][7][2]を名乗った時期もあった。本名は澤ノ井 增吉(さわのい ますきち、沢ノ井 増吉)[1][2]

サイレント映画の時代、尾上松之助の助演者として知られ、フィルムが国の重要文化財に指定された『史劇 楠公訣別』にも出演している俳優である[5]

人物・来歴[編集]

1875年(明治8年)7月21日京都府京都市下京区四条新町東入ル月鉾町に生まれる[1][7][8][2]。本名については、『現代俳優名鑑』(揚幕社)では「澤の井 増吉[7]、『世界のキネマスター』(報知新聞社)では「澤ノ井 桝吉」としている[8]

満6歳になる1881年(明治14年)、尾上多見蔵(1800年 - 1886年)の一座に入門、子役として京都四條の北座(1892年廃止)において、『渡海屋』(『義経千本桜』)の安徳君を演じて初舞台を踏む[1][7][2]尋常小学校を卒業後、東京に移り、九代目市川團十郎(1838年 - 1903年)の門下に入り、「市川 福瓶」と名乗る[1][7][2]。その後、「市川 廣藏」と改名し、四代目實川延三郎(1864年 - 1905年)[9]の次弟と定められる[1][7][2]

實川 延一郎」と改め、満36歳になる1911年(明治44年)、京都の横田商会に入社、女形として、同年に公開された『親不知子不知』で映画界にデビューする[1][7][2]。1912年(大正元年)9月10日、横田商会は福宝堂吉澤商店M・パテー商会との合併で日活になり、横田商会の「法華堂撮影所」は「日活関西撮影所」(通称・日活京都撮影所)と改称し、實川は継続的に同撮影所に所属した[1][7][2]。1915年(大正4年)3月に公開された『戸隠山の鬼女』(監督不明)で、實川は1シーンで二役を演じており、これが日本映画初のダブルロールであったとされる[10]

1916年(大正5年)、日活を退社し、天然色活動写真(天活)に移籍し、東京の鳥越中央劇場を拠点に、連鎖劇に出演した[1][2]。1916年(大正5年)8月に連鎖劇が禁止になり、實川は舞台での実演を行う俳優となった[1][2]。のちに映画監督になる伊丹万作は当時、旧制中学校5年生であったが、愛媛県松山市に巡業に来た實川の芝居を見ているという[1]。1920年(大正9年)1月、天活の本社機構と巣鴨撮影所は国際活映(国活)に買収されており[11]、實川は同年、国活が製作したサイレント映画『葵小僧』(監督不明)に主演した記録がある[3]。同年11月、實川は日活関西撮影所に復帰した[1][2][3][4][5]。以降は、尾上松之助、市川姉蔵の共演者として活躍、女形の時代の終焉を迎えて男役に転向した[1][2][3][4][5]。1923年(大正12年)に発行された『現代俳優名鑑』(揚幕社)によれば、当時、大谷は京都市下京区安井北門西入ルに住み、身長は5尺5分(約153.0センチメートル)、体重13貫202匁(約49.5キログラム)、妻・長男あり、常用煙草は敷島で、酒は嫌いであるという[7]

1926年(大正15年)6月、尾上松之助が倒れ、同年9月11日に亡くなって以降は、脇役に回った[1][2]。満62歳となった1937年(昭和12年)10月14日に公開されたトーキー水戸黄門廻国記』(監督池田富保)に出演して以降の出演記録がみられず[3][4][5]、同年同月に高齢のため引退した[1][2][3][4][5]

1940年(昭和15年)4月10日午前2時、老衰のため、京都府京都市の自宅で死去した[1][2]。満64歳没。

膨大な出演作のうちで現存するものは少ないが[6]、「現存するごく早い時期のオリジナルネガフィルムである可能性が極めて高く貴重なフィルムである」としてフィルムが2010年(平成22年)6月29日付けで国の重要文化財の指定を受けた『史劇 楠公訣別』[12](『楠公父子訣別の場』[5]) に出演していることがわかっている[5]

フィルモグラフィ[編集]

史劇 楠公訣別』(1921年)出演時、満46歳。奥左が實川、手前右が尾上松之助

クレジットはすべて「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][13]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。資料によってタイトルの異なるものは併記した。

横田商会[編集]

すべて製作・配給は「横田商会」、すべてサイレント映画である[3][4]

日活関西撮影所[編集]

特筆以外すべて製作は「日活関西撮影所」、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][5]

日活京都撮影所第一部[編集]

1925年(大正14年)、満50歳ころの写真。

すべて製作は「日活京都撮影所第一部」(時代劇部)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][5]

日活大将軍撮影所[編集]

すべて製作は「日活大将軍撮影所」(時代劇部)、配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][5]

  • 筑波鋭之助』 : 監督小林弥六、1925年9月23日公開 - 筑波鋭之助(主演
  • 乞食と大名』 : 監督小林弥六、1925年9月30日公開 - 松根備前守
  • 狂へる漂人』 : 監督小林弥六、1925年10月6日公開 - 塩田人夫・浜造(主演
  • 荒木又右衛門』 : 監督池田富保、1925年11月1日公開 - 本多大内記

日活太秦撮影所[編集]

砂繪呪縛』(1927年)公開時のポスター。
江戸三国志』(1928年)公開時のポスター、實川の名が確認できる。

特筆以外はすべて製作は「日活太秦撮影所」、配給は「日活」、特筆以外はすべてサイレント映画である[3][4][5]

日活京都撮影所[編集]

特筆以外はすべて製作は「日活京都撮影所」、配給は「日活」、特筆以外はすべてサイレント映画である[3][4][5]

脚注[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s キネマ旬報社 [1979], p.268.
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 「実川延一郎」、jlogos.com, エア、2013年3月11日閲覧
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 「実川延一郎」日本映画データベース、2013年3月11日閲覧
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「実川延一郎」、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月11日閲覧
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 「実川延一郎」日活データベース、2013年3月11日閲覧
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n 「實川延一郎」、「実川延一郎」東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月11日閲覧
  7. ^ a b c d e f g h i j 揚幕社 [1923], p.39-40.
  8. ^ a b c 報知 [1925], p.218.
  9. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus『実川延三郎(4代)』 - コトバンク、2013年3月11日閲覧。
  10. ^ 戸隠山の鬼女、日活データベース、2013年3月11日閲覧。
  11. ^ 田中[1975], p.292-293.
  12. ^ 映画フィルム「楠公訣別」、文化遺産データベース、文化庁、2013年3月11日閲覧。
  13. ^ a b c d 主な所蔵リスト 劇映画 邦画篇マツダ映画社、2013年3月11日閲覧。
  14. ^ 戦前の記録映画・小型映画特集、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月11日閲覧。
  15. ^ 『忠次旅日記』『長恨』デジタル復元版と重要文化財指定映画『小林富次郎葬儀』特別上映会、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年3月11日閲覧。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]