大平元宝

大平元宝旧字体大平󠄁元寶、たいへいげんぽう)は、奈良時代を記した正史に記録が見える銀銭。史料上では天平宝字4年(760年)に銅銭万年通宝金銭開基勝宝とともに定められたことが確認されるが、正真の現物は発見されておらず「幻の銀銭」とされる。

なお、日本でも中国大陸でも史実で確認されないものの開基勝宝とともに発掘出土した銀銭の賈行は、この点で大平元宝と対照的な「謎の銀銭」である。

概要[編集]

大平元宝は、淳仁天皇治世下の『続日本紀』天平宝字4年3月16日(760年4月6日)の条に銭銘が現れる。

天平寳字四年

三月丁丑勅。銭之為用。行之已久。公私要便、莫甚於斯。頃者。私鋳稍多。偽濫既半。頓将禁断。恐有騒擾。宜造新様与旧並行。庶使無損於民、有益於国。其新銭文曰万年通宝。以一当旧銭[注釈 1]之十。銀銭文曰大平元宝。以一当新銭之十。金銭文曰開基勝宝。以一当銀銭之十。

上の『続日本紀』に載る詔には、同時に発行された貨幣との交換比率が示されており、大平元宝10枚は開基勝宝(金銭)1枚分、また大平元宝1枚は万年通宝(銅銭)10枚分に当てると定められ、万年通宝は和同開珎(旧銭)10枚分とされている[2][3][4][5][6]。これらの貨幣の発行権は前年に太政大臣に任ぜられた藤原仲麻呂(恵美押勝)に専制的に与えられた。万年通宝や開基勝宝などによる類推から、円形方孔の銭貨と推定される[2]

現存の確認状況[編集]

大平元寳が発掘調査で見つかった事例は報告されておらず、大正時代には某家、昭和3年(1928年)に唐招提寺で宝蔵から発見され伝わる2品が現存していた。3品が伝存するとする説もある[2][7][8]。現在はその2品の拓本が伝わるのみで、現品は行方不明となっている。しかし拓本によれば銭文は何れも『続日本紀』に記された「大平元寳」ではなく「平元寳」と表記されており、贋物説がある[2][9][3]。一方で「大平」は「太平」と同じく天下太平を表す吉語であり、淳仁天皇の治世が太平であることを願ったものともされる[2]

2004年に出版された文献には、享保20年(1735年)、近衛家出入の摂津大坂の表具師、大友長門正峯が、近衛家から預かった大型佛画修理のため下軸を外したところ二枚の銀銭が出現し、表具完了と共に銀銭2枚を近衛公に持参した処、正直者よと褒められ1枚を下賜されたと伝わる大平元寳1枚の写真が掲載されている。この銀銭は1.48(5.55 グラム)で開基勝寳の半分程度の量目であるという。この銭文も「太平元寳」である[10][11]黒川古文化研究所に所蔵される1点は、「寳」字の「貝」内部が「○」になっており、また「大(太)」字第3画の跳ね方などからも8世紀に作成されたものとは考え難く、参考品[注釈 2]とされている[4][5]

これとは別に、契丹)の古銭にも「太平元寳」があり、この遼銭の「太平元寳」銀銭は前記の拓本と酷似しているため、発見された品が遼銭である可能性もある[12]。また、この遼銭を使った「あの幻の銀銭が」的な詐欺取引にも注意が必要である。

確実な現存が未確認である理由[編集]

現存が僅少である、また確認されていないということから、当時一般流通は無かったとする推論を立てた上で、次のように説明されることがある。すなわち新規発行の銀銭(大平元寳)1枚を新銅銭(萬年通寳)10枚分として、萬年通寳に対して銀銭の1/10もの価値をもつ非常に有利な交換率を提示して、旧銅銭(和同開珎)10枚 = 新銅銭(萬年通寳)1枚の法外な比率を目立たなくし、新銅銭の価値感覚を高める目的、即ち貨幣価値・レートを設定する目的の「見せ金」に過ぎなかったとするものである[3]

実際にこの公定交換率で交換を実施すれば、萬年通寳から大平元寳への交換を希望する者が殺到するのは火をみるより明らかであり、律令政府の大平元寳の備蓄は直ちに底を付き、萬年通寳の流通に支障を来たすと考えられる[2][3]。また和同開珎100枚分の価値に相当することから私鋳銭が現れることは必至であり、このことによる貨幣経済の混乱を避けるため、律令政府は大平元寳を流通に投じなかった、とする説もある[2][注釈 3]

また、利光三津夫は淳仁天皇の廃位に伴い大平元寳が破却されたのではないかとする見解を唱えた[15]

2017年には、奈良国立博物館列品室長の吉澤悟が、大平元寳が現存していない理由として、藤原仲麻呂の乱を起こして敗死した藤原仲麻呂と彼に連座して廃位された淳仁天皇の事績を打ち消したい称徳天皇がこれを回収させ、銀壺一対(現在は正倉院宝物)[16][17]に鋳直させた上で東大寺に奉納したのではないかとする説を唱えた[18][注釈 4]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ ここで「旧銭」は和同開珎を指す[1]
  2. ^ 参考品とは、当時の律令政府が発行した銭でなく後作の偽物。
  3. ^ 実際には和同開珎を原料として10倍の価値を与えられた萬年通寳の私鋳が多く行われたと予想される[13][14]。萬年通寳発行の頃にも私鋳銭を厳罰とする詔が頻繁に出されている。
  4. ^ 吉澤は『正倉院紀要』第39号所収の「正倉院南倉の銀壺について」で、正倉院の銀壺「甲」「乙」は唐製で遣唐使が日本に持ち帰ったとする従来の有力説に対し、唐の金銀器との比較を通じて、銀壺の彫金技法が稚拙であることと、表面の文様も同じ図像が複数使われて多様性が低い点などを指摘し、正倉院の銀壺は実際は日本製で、文様は唐から入手した原図を転写・合成して描いたとする見解を発表した[18]。吉澤は併せて、銀壺の底面に刻まれた銘文の「天平神護三年(767年)二月四日」(銀壺が東大寺へ奉納された日)からその製作・奉納の背景についても考察し、銀壺は藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇が東大寺の大仏へ感謝を表すために奉納したもので、「甲」「乙」の総重量が100キログラムに及ぶ銀壺の素材は、藤原仲麻呂と淳仁天皇の政策を白紙化する流れで回収された大平元寳を充てることで調達されたと推測している[19]

出典[編集]

  1. ^ 青山礼志 1982, p. 14.
  2. ^ a b c d e f g 松村恵司 2009, pp. 48–53.
  3. ^ a b c d 今村啓爾 2001, pp. 161–165.
  4. ^ a b 永井久美男 2018, pp. 5–6.
  5. ^ a b 永井久美男 2018, p. 16.
  6. ^ 滝沢武雄 1996, pp. 26–29.
  7. ^ 郡司勇夫「大平元寳余話」『ボナンザ』第八巻、四号、1972年
  8. ^ 皇朝銭研究会 2019, pp. 115–116.
  9. ^ 青山礼志 1982, pp. 18–20.
  10. ^ 矢部倉吉 2004, pp. 38–41.
  11. ^ 矢部倉吉 2004, pp. 518–519.
  12. ^ 謎の珍品古銭, 遼 (契丹)
  13. ^ 松村恵司 2009, p. 50.
  14. ^ 今村啓爾 2001, p. 171.
  15. ^ 吉澤悟 2017, p. 25.
  16. ^ 銀壺 甲 - 正倉院、2023年8月11日閲覧。
  17. ^ 銀壺 乙 - 正倉院、2023年8月11日閲覧。
  18. ^ a b 産経新聞 (2017年4月21日). “奈良・正倉院の銀壺、中国製ではなく国内製? 奈良博室長が新説”. 産経新聞 (産経新聞社). https://www.sankei.com/article/20170421-S5EP2BAXVJM57JDQJXA5GG64GM/ 2023年8月11日閲覧。 
  19. ^ 吉澤悟 2017, pp. 21–23.

参考文献[編集]

  • 青山礼志『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』ボナンザ、1982年。 
  • 今村啓爾『富本銭と謎の銀銭』小学館、2001年。ISBN 4-09-626124-6 
  • 松村恵司「和同開珎の発行」『日本の美術』第512号 出土銭貨、至文堂、2009年1月10日、ISBN 9784784335121 
  • 永井久美男 編『研究図録シリーズ5 古代銭の実像 -和同から乹元まで-』黒川古文化研究所、2018年。 
  • 滝沢武雄『日本の貨幣の歴史』吉川弘文館、1996年。ISBN 978-4-642-06652-5 
  • 矢部倉吉『古銭と紙幣 収集と鑑賞』金園社、2004年10月。ISBN 978-4-321-24607-1 
  • 吉澤悟「正倉院南倉の銀壺について」(PDF)『正倉院紀要』第39号、宮内庁正倉院事務所、2017年3月、1-26頁、ISSN 1343-1137NAID 400211976492021年4月7日閲覧 
  • 皇朝銭研究会 編『皇朝銭収集ガイド -日本の古代貨幣を詳細に解説-』書信館出版、2019年。 

関連項目[編集]