天野桃隣

天野 桃隣(あまの とうりん、1639年寛永16年)- 1720年[注 1]1月18日享保4年12月9日))は、江戸時代前期から中期に活躍した俳人。名は勘兵衛、通称は藤太夫[注 2]。別号に初代太白堂、桃翁など[1]

来歴[編集]

伊賀上野生まれ。芭蕉直門で芭蕉の血縁者(『本朝文鑑』)とされる俳人である[2]各務支考が唱えた説では松尾芭蕉の従兄弟や甥と伝えられる[1]。後に芭蕉の門人となり大坂に移り、俳諧を学んで詠歌に携わった。杉山杉風とともにかるみの句を求めた[2]

江戸に入り、40歳のころに芭蕉への恩恵により、俳諧師としての独立が認められた[1]1694年元禄7年)に芭蕉が死去した後、彼が著した『奥の細道』の足跡を巡り、1697年(元禄10年)の忌日に『陸奥鵆』全5巻を刊行した[2]。しかし、その後は容貌が素朴となる等、不遇の晩年を過ごした[1]。なお、桃隣は戯作者であった桃林堂蝶麿と同一人物説とされている[1]。墓所は渋谷区瑞円寺

主な著作物[編集]

  • 『陸奥鵆』
  • 『粟津原』

※両者とも芭蕉の忌日に刊行されている。

  • 『発句合』 - 桃隣が残した唯一の句合評である[2]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 1719年とする説もある。
  2. ^ 名とする説もある。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及, 美術人名辞典,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典,精選版. “天野桃隣とは”. コトバンク. 2020年12月3日閲覧。
  2. ^ a b c d 矢羽勝幸,大谷弘至 (2010-03). “天野桃隣評・宝永四年『発句合』-解題と翻刻”. 二松学舎大学東アジア学術総合研究所集刊 (二松学舎大学) 40: 95-113. http://id.nii.ac.jp/1284/00002563/. 

外部リンク[編集]