大阪歌舞伎座

(2代目)大阪歌舞伎座
Osaka Kabukiza
情報
正式名称 大阪歌舞伎座
完成 1932年[[9月25[1]日]]
開館 1932年[[9月28[2]日]]
開館公演 東西大合同歌舞伎[3]
閉館 1958年4月
最終公演 新国劇サヨナラ公演
収容人員 約3,000[2]

2,596[4]
延床面積 3,549m²
用途 歌舞伎の興行
運営 千日土地建物株式会社
所在地 大阪府大阪市南区難波新地三番町七番地[2]
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エスカールビル[5]
情報
用途 複合商業施設
設計者 大建設計[6]
施工 大林組[6]
建築主 日本ドリーム観光[6]
構造形式 鉄骨鉄筋コンクリート造・一部鉄骨造[6]
敷地面積 4,169.98 m² [5]
建築面積 3,770.21 m² [5]
延床面積 25,923.81 m² [5]
階数 地上7階・地下1階・塔屋3階[5]
開館開所 1932年(昭和7年)9月28日[2]
所在地 大阪府大阪市南区難波新地三番町七番地[2]
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大阪歌舞伎座おおさかかぶきざは、かつて大阪府大阪市南区難波新地四番町(現・中央区千日前)にあった歌舞伎劇場である[2]

松竹の興行が行われていたが、経営はその傍系会社であった千日土地建物(千土地興行を経て日本ドリーム観光に改称)が行ってきた。千日前交差点の角地に立地し、まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っていた。劇場自体はビルの1 - 4階部分を占め、東京・歌舞伎座よりも芝居が見やすく、スケールの大きな劇場として知られた。

(初代)大阪歌舞伎座[編集]

「(初代)大阪歌舞伎座」は、桜橋交差点の北約100mの場所に建設された洋風2階建ての劇場で、1898年(明治31年)2月15日からのこけら落としは九代目市川団十郎を迎えて「武勇誉出世景清」と「信州川中島」が上演されたが、翌年の1899年(明治32年)1月12日に失火により全焼し、再建されずに閉館となった[7]

(2代目)大阪歌舞伎座[編集]

大林組が施工した青磁一色のタイルで覆われた外壁を持つ南欧近世式の地下1階地上7階建て建物で、1階から4階までが観覧席となっていた[3]

2階正面1列以外は全て椅子席で約3,000人の観客を収容可能となっており、4階席には当時の大阪では珍しかった「一幕見席」を配していた[3]

間口は幅15間・高さ5間半、奥行11間あり、舞台の床から天井の簀子までの高さは50尺の大きさの舞台があった[8]

直径10間の外盆と直径7間の内盆を持つ蛇の目回しが舞台に設置されており、そこには最大で幅11間・奥行11尺弱の3つの切り穴が配されており、舞台面から約10尺下げられる構造となっていた[8]。 花道は、幅6尺長さ12間の本花道の他に、幅4尺の裏花道も設置されていた[8]。 各種の舞台装置は全て電動で自由自在に動かせるように作られていた[3]。 また、舞台前にはオーケストラピットがあり[8]、4階正面にはトーキー映画の上映可能な映写室が設置されていた[9]

6階はスポーツランドで[3]、約300坪の屋上スケート場は[3]朝日ビルのアイススケート場と並ぶ人気を集め[10]、「第5回全日本氷上選手権大会」(1934年(昭和9年)1月1日から3日間開催)のフィギュアスケートの会場にもなった[11]。 7階と地下に大衆大食堂[注 1]が開設されたほか、和食店・喫茶店が各々6店舗、洋食店3店舗、寿司店1店舗の17店舗の飲食店が出店していた[3]。 また、屋上庭園も開設されていた[3]

冷暖房完備し、客用5基・スケート場用1基のほか、楽屋用2基・配膳用3基の11基のエレベーター[注 2]も設置される等電気設備も揃えられていた[3]

同年10月3日からこけら落としとなる「東西大合同歌舞伎」が行われ[3]、上方歌舞伎の大御所初代中村鴈治郎のほか上方からは中村福助や中村魁車、東京からは市村羽左衛門(15代)や松本幸四郎(7代)などが出演して[10]、「大森彦七」・弁天娘女男白浪」・「一谷嫩軍記」が上演された[3]

しかし、1944年(昭和19年)3月5日に「決戦非常措置要綱」に基づく「高級享楽停止具体案」により営業停止となり[14]、「戦力増強劇場」へ転換され[15]大政翼賛会大日本産業報国会・大阪府保安課などによる運営委員会が産業戦士向けの慰安のために家庭劇などを上演することになった[16]

また、5階劇場は疎開指定興行場とされた[14]

1945年(昭和20年)5月12日に名称を「大阪歌舞伎座」に戻して再開場し、歌謡劇や歌舞伎の興行を再開した[17]

第2次世界大戦後は千日前地区では戦火を免れた唯一の劇場として[10]、戦後すぐの1945年(昭和20年)9月1日に再開場して[18]、「木下サーカス」で興行を再開した[19]

1946年(昭和21年)1月に正月興行を再開し、「猩々」・「鳥辺山心中」などが上演された[10]

しかし、初代中村鴈治郎の独裁体制と呼ばれるような状況が長く続いたことで、他のスターが育たず、企画力も低下することに繋がり、その没後は上方歌舞伎は不振が慢性化し、松竹の白井松次郎の死で一段と悪化するに至った[20]。 そして、内紛から1954年(昭和29年)9月に三代目坂東鶴之助が松竹脱退を表明し、若手有望株も将来性を悲観して映画に軸足を移し、同月24日に三代目阪東壽三郞に没するなど、上方歌舞伎界の崩壊が進むことになった[20]。 さらに、ストライキの影響で1955年(昭和30年)は当劇場での上方歌舞伎の正月興行が出来なくなり、同年5月には二代目中村鴈治郎が歌舞伎の無期休演を発表し、6月には四代目中村富十郎が不満を表明して「矢車座」を結成して自主公演を行うなど内紛が一層深刻化し、上方歌舞伎界は崩壊するに至った[21]

1954年(昭和29年)に松竹社長の大谷竹次郎から「千土地興行」の経営再建を委ねられた松尾国三がわずか2年で負債を一掃し[22]1956年(昭和31年)9月に「千土地興行」の社長に就任した[23]。 そして、更なる業績改善のため、稼働率の向上と設備の老朽化への対応として縮小移転することになり、1957年(昭和32年)11月12日に「なんば大映」と大映関西支社跡地で893人(約34.4%)少ない1,703人収容の新歌舞伎座の建設に着手すると共に、同年11月28日に増資を行ってその建設資金を調達した[4]

また、極度の不振に陥っていた劇場経営の再建策として従来の松竹によるひも付きから独自の採算重視の興行への切り替えを行い[24]1958年(昭和33年)には「千日土地建物株式会社」が当劇場での上方歌舞伎の正月興行が行われず[25]、同年4月に新国劇によるサヨナラ公演を最後に閉場した[26]

そして、新たな商業施設の賃借保証金を活用して同年5月1日から商業施設への改修工事が開始された[24]

難波に建設された新歌舞伎座が同年10月30日に開場式を行って[26]翌日31日からこけら落とし公演を行った[27]。 だが、そのこけら落とし公演も弱体化した上方歌舞伎のみでは成り立たないとして、尾上菊五郎劇団[注 3]三代目市川壽海七代目嵐吉三郎のみが出演する形となった[31]。 なお、このこけら落とし公演の初日に「天地開闢」で舞台装置が倒れ、2日目には市川海老蔵が出演をキャンセルして帰京しようとして1つ目の演目の「天地開闢」が九円となるなど波乱の幕開けとなった[32]

1966年(昭和41年)6月1日に「株式会社新歌舞伎座」を設立し、「株式会社日本ドリーム観光」から子会社として分離独立した[33]

東京・歌舞伎座を凌ぐ座席数と舞台設備を誇り、初代中村鴈治郎の人気も相まって、千日前楽天地の跡地にできたこの大劇場はまさに「上方歌舞伎の殿堂」と呼ぶに相応しい劇場であった。[要出典]

にも拘らず実質26年で廃座に至ったのは、戦後の上方歌舞伎(関西歌舞伎)が衰退の一途を辿り、大劇場の維持が困難になってきたためとされる。ただ一方、戦前でさえ(本来ならば、この劇場を本拠地に活躍する立場だったはずの)初代鴈治郎の出演は東京から来演した役者との東西合同歌舞伎に出演が限定されるなど、当時の関西(京阪)の観劇人口に対して大きすぎる劇場であった点も無視できない[34]

その後[編集]

大阪歌舞伎座は難波に新歌舞伎座を別途建設して移転する形で閉鎖されたが、移転後経営主体であった千土地興行は程なく上方歌舞伎の興行を打ち切った。その後、新歌舞伎座では歌手芝居を中心とした興行が行われるようになった。

一方、大阪での歌舞伎は劇場も定まらない状況で非定期的な興行が行なわれていたが、「関西で歌舞伎を育てる会」(現「関西・歌舞伎を愛する会」)の結成、三代目中村鴈治郎(四代目坂田藤十郎)の襲名を機に、年に数回ながら、道頓堀中座を拠点に定期的な興行が行なわれるようになった。

同じく道頓堀の大阪松竹座1997年平成9年)2月26日に上方歌舞伎の拠点となる「(3代目)大阪歌舞伎座」として開場し[35]、同年3月2日からこけら落としの「三月大歌舞伎」が上演された[36]

沿革[編集]

  • 1932年昭和7年)
  • 1938年(昭和13年)10月15日 - 地階に映画館「歌舞伎座地下劇場」を開設[37]
  • 1944年(昭和19年)
    • 3月5日 - 「決戦非常措置要綱」に基づく「高級享楽停止具体案」により営業停止[14]
    • 「戦力増強劇場」へ転換され[15]大政翼賛会大日本産業報国会・大阪府保安課などによる運営委員会が産業戦士向けの慰安のために家庭劇などを上演[16]
  • 1945年(昭和20年)
  • 1946年(昭和21年)1月 - 正月興行を再開し、「猩々」・「鳥辺山心中」などを上演[10]
  • 1954年(昭和29年)12月15日 - 千土地興行労組、全面ストライキを決行[38]新国劇公演中にストライキ発生。芝居が中断される(千土地人権争議)。
  • 1955年(昭和30年)
    • 1月5日 - 大阪地方労働委員会の斡旋でストライキが終結[38]
    • 10月1日 - 大阪歌舞伎座の5階と6階に「千日劇場」を開業[39]
  • 1957年(昭和32年)1月 - 「戎橋松竹」を「大阪歌舞伎座地下劇場」に移転する形で、「歌舞伎地下演芸場」を開場[40]
  • 1958年(昭和33年)
    • 1月 - 興行主体が松竹から千土地興行に代わる。
    • 4月 - 「新国劇サヨナラ公演」をもって廃座[26]
    • 5月1日 - 商業施設への改修工事を開始[24]
    • 12月1日 - 改装工事が完了し、複合商業施設「千日デパート」が開業[41]
  • 1972年(昭和47年)
  • 1975年(昭和50年)12月26日 - 日本ドリーム観光を含む4社と「千日デパート火災遺族の会」の間で総額約18億5千万円を保証することで和解が成立[44]
  • 1980年(昭和55年)
    • 2月 - 解体工事を開始[45]
  • 1981年(昭和56年)5月 - エスカールビルの建設工事を開始[6][46]

構造[編集]

  • 建屋:7階建(一部8階)地下2階[37]
  • 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
  • 全高:30.3メートル
  • 塔屋最頂部:36.3メートル
  • 建築面積:3,549平方メートル
  • 延床面積:19,803平方メートル
  • 劇場座席数:3,000席
  • 劇場舞台:間口27メートル、高さ6.8メートル
  • 6階スケートリンク面積:1,208平方メートル(2面分)
  • 正面円形大窓直径:13メートル
  • 起工:1931年(昭和6年)3月
  • 竣工:1932年(昭和7年)9月
  • 設計施工:大林組

その他[編集]

  • 1935年(昭和10年)6月16日に第1回大阪プロフェッショナル拳闘選手権大会の決勝試合が開催された[47]
  • 地階は映画館などが設置されたが、1956年(昭和31年)に演芸場・歌舞伎地下演芸場に転換した。これは戎橋松竹の閉鎖に伴う代替処置であったが、寄席囃子が楽屋を伝って上階の歌舞伎座の舞台に洩れてしまうなどの欠陥が生じた。
  • 5階は大食堂が設けられたが、1951年(昭和26年)にアルバイトサロン(現在のキャバクラに相当)「ユメノクニ」が開場した。この他にも別の階に「歌舞伎キャバレー」なる店も営業された時期もあり、歌舞伎と風俗が同居する奇妙な形態となっていた。
  • 6階はアイススケートリンクが設けられ、京都・河原町三条のスケートニュース映画館と神戸・新開地聚楽館とでチェーンが形成されていた。終戦直後の1945年(昭和20年)10月に占領軍向けの特殊慰安所に改装され、「ドリームランド」の名前で朝鮮戦争勃発時まで営業した。その後は「歌舞伎会館」という劇場に転換し、曾我廼家五郎劇(軽演劇)と漫才を上演していた。この劇場は千日デパートに転換後、演芸場の千日劇場になる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 7階食堂には米国の貿易商社から納入されたフリジデヤ電気冷蔵庫3基が設置されていた[12]
  2. ^ 大阪市西区西九条にあった「株式会社東亜鉄工所」が製造した当時としては珍しい国産エレベーターであった[13]
  3. ^ 六代目尾上菊五郎が団長を務めた[28]「(初代)尾上菊五郞劇団」は1946年(昭和21年)11月10日に解散して「尾上菊五郎一座」となっており[29]、六代目菊五郎の死後の1949年(昭和24年)7月に結成された「(2代目)尾上菊五郞劇団」は世話物を得意としていた[30]

出典[編集]

  1. ^ 『高等建築学 第22巻』 常磐書房、1934年5月29日。 pp276
  2. ^ a b c d e f g 佐原包吉 “劇場めぐり”. 芸術殿 1935年2月号 (国劇向上会) (1935年2月1日).pp58
  3. ^ a b c d e f g h i j k l 『全日本産業大観』 朝日新聞社、1933年2月25日。 pp364
  4. ^ a b “復配期待の千土地興行”. 日本経済新報 1958年7月下旬号 (日本経済新報社) (1958年7月21日).pp58
  5. ^ a b c d e “千日デパート無罪判決”. 消防通信 1986年6月号 (消防通信社) (1984年6月15日).pp9
  6. ^ a b c d e “特集 建築防災と法 建物の防災計画・事例 エスカールビル”. 建築と社会 1986年6月号 (日本建築協会) (1986年6月1日).pp46
  7. ^ 大阪都市協会 『北区史』 北区制100周年記念事業実行委員会、1980年4月1日。 pp454
  8. ^ a b c d 佐原包吉 “劇場めぐり”. 芸術殿 1935年2月号 (国劇向上会) (1935年2月1日).pp59
  9. ^ 『日本案内記 近畿篇 下』 鉄道省、1933年3月28日。 pp29
  10. ^ a b c d e 『南海沿線百年誌』 南海電気鉄道、1985年5月10日。 pp162
  11. ^ 『毎日年鑑 昭和10年版』 大阪毎日新聞社、1934年9月10日。pp389
  12. ^ “マネーヂメント”. 電気経済時論 第4巻 第10号 (電気経済時論社) (1932年10月15日).pp16
  13. ^ 飯島博 “本邦に於ける昇降機(人員用)製造工業に關する調查”. 工業調査彙報 第11巻 第3号 (工政会出版部) (1933年10月14日).pp109-111
  14. ^ a b c “映画時報”. 映画評論 1944年4月号 (国劇向上会) (1944年4月1日).pp55
  15. ^ a b 『松竹七十年史』 松竹、1964年3月20日。 pp164
  16. ^ a b 山本修二 “七月の關西劇信”. 日本演劇 1944年8月号 (日本演劇社) (1944年8月1日).pp34
  17. ^ a b 『松竹七十年史』 松竹、1964年3月20日。 pp167
  18. ^ 早稲田大学演劇博物館『演劇年鑑 昭和22年版』 北光書房、1947年12月20日。pp329
  19. ^ a b 『松竹七十年史』 松竹、1964年3月20日。 pp168
  20. ^ a b 内山美樹子 “研究手帳 市川寿海 略伝と年譜(三)”. 藝能史研究 1973年4月号 (藝能史研究會) (1973年4月18日).pp51
  21. ^ 内山美樹子 “研究手帳 市川寿海 略伝と年譜(三)”. 藝能史研究 1973年4月号 (藝能史研究會) (1973年4月18日).pp52
  22. ^ “レジャー界の法皇・松尾国三氏に引退説 内外の批判を浴び窮地に立つ”. 実業往来 1974年9月号 (実業往来社) (1974年9月1日).pp13
  23. ^ “人物ハイライト 旅役者から身をおこしドリームを実演する松尾国三”. 週刊日本経済 1966年5月12日号 (日本経済新報社) (1966年5月12日).pp39
  24. ^ a b c “復配期近づく千土地興行”. 日本経済新報 1958年9月下旬号 (日本経済新報社) (1958年9月21日).pp56
  25. ^ 内山美樹子 “研究手帳 市川寿海 略伝と年譜(三)”. 藝能史研究 1973年4月号 (藝能史研究會) (1973年4月18日).pp54
  26. ^ a b c 『松竹七十年史』 松竹、1964年3月20日。 pp215
  27. ^ “大阪新歌舞伎座成る”. 劇評 1958年11月号 (劇評社) (1958年10月18日).pp14
  28. ^ 日本演劇協会『演劇年鑑 昭和18年版』 東宝書店、1943年9月20日。pp340
  29. ^ “東西南北”. 日本演劇 1947年2月号 (日本演劇社) (1947年2月1日).pp14
  30. ^ 『時事常識年鑑 1954年版』 自由国民社、1953年12月10日。pp274
  31. ^ 菱田雅夫 “関西劇信 寿海と菊五郎劇団”. 劇評 1958年11月号 (劇評社) (1958年11月18日).pp15
  32. ^ “こぼれ話”. 経済展望 1958年12月号 (経済展望社) (1958年12月1日).pp97
  33. ^ “斜陽化に挑む関西興行界の表情”. 週刊日本経済 1966年10月6日号 (日本経済新報社) (1966年10月6日).pp42
  34. ^ 権藤芳一著『上方歌舞伎の風景』(和泉書院)より
  35. ^ “異色読物 祗園夜話 第170回”. 国会画報 1997年4月号 (麹町出版) (1997年4月1日).pp40
  36. ^ “異色読物 祗園夜話 第170回”. 国会画報 1997年4月号 (麹町出版) (1997年4月1日).pp41
  37. ^ a b 戦前期日本の映画館写真(5)大阪 道頓堀・千日前篇”. NFCデジタル展示室. 東京国立近代美術館 (2014年8月27日). 2015年4月18日閲覧。
  38. ^ a b “千土地興行不当労働行為事件”. 中央労働時報 1957年5月号 (全国労働基準関係団体連合会) (1957年5月10日).pp33
  39. ^ 西村明允 有我政彦 宮本堯 小笠原芳昭 “大阪千日デパートの火災”. 防災 第147号 (東京連合防火協会) (1972年8月31日).pp17
  40. ^ 『松竹七十年史』 松竹、1964年3月20日。 pp244
  41. ^ 『南海沿線百年誌』 南海電気鉄道、1985年5月10日。 pp535
  42. ^ 『南海沿線百年誌』 南海電気鉄道、1985年5月10日。 pp163
  43. ^ “千日デパートビル火災犠牲者合同葬儀 5月25日 東本願寺難波別院”. 近代消防 1972年7月号 (近代消防社) (1972年7月).pp178
  44. ^ 『大阪府年鑑 昭和51年版』 新大阪新聞社、1976年4月30日。pp84
  45. ^ 田所英幸 金田宏 安立俊夫“技術レポート 大規模地下工事における手法と処理例 新千日デパートビル新築工事の場合”. 施工 1983年6月号 (彰国社) (1983年6月).pp33-44
  46. ^ 『エスカールビル』 ひろば 通巻241号 (近畿建築士会協議会) (1984年5月15日)。pp26
  47. ^ 『新愛知年鑑 昭和11年版』 新愛知新聞社、1935年9月10日。pp389

関連項目[編集]