大関清増

 
大関清増
時代 安土桃山時代
生誕 永禄8年(1565年
死没 天正15年7月25日1587年8月28日
別名 弥重郎[1]
戒名 瓊岳道久実林院
墓所 栃木県大田原市黒羽田町の大雄寺
官位 美作[1]
主君 那須資晴
氏族 大関氏
父母 父:大関高増、母:宇留野義元
兄弟 晴増清増資増茂直金丸資満室、
千本資政正室(後蘆野盛泰室)
正室:大田原綱清
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大関 清増(おおぜき きよます)は、安土桃山時代武将下野国黒羽城主。

生涯[編集]

永禄8年(1565年)、大関高増の次男として誕生。兄・晴増小峰義親婿養子となった[2]ために後継者に立てられ、天正6年(1578年)に家督を譲られ叔父・大田原綱清の娘を正室に迎える。実際の政務は父・高増の後見を受けた。

天正13年(1585年)3月、主君・那須資晴や父・高増と共に薄葉ヶ原の戦いにて塩谷義綱宇都宮国綱連合軍を打ち破り、大関勢は多くの首級を挙げた。また、同年末から翌天正14年(1586年)1月にかけて主君・資晴の了承を得て伊王野資信の所領に攻め込み勝利し、講和の条件として伊王野領の東郷などを割譲させて大関氏の所領を拡大した。

天正15年(1587年)7月25日、病死。享年23。

嗣子は無かったため佐竹義重の後押しを受けた兄・晴増[3]が家督を継いだ。

脚注[編集]

  1. ^ a b 『寛政重修諸家譜』
  2. ^ 後に破約となる。
  3. ^ 白河結城氏の養子となっていたが、義重が実子の義広を白河氏の当主に送り込んだために廃嫡状態となり佐竹家の客将となっていた。

出典[編集]

外部リンク[編集]

  • 佐竹義重起請文 市指定有形文化財・古文書 | 大田原市 - 天正11年(1583年)5月10日付、佐竹義重から大関清増宛の起請文で、佐竹氏と抗争中の那須氏傘下の大関氏が佐竹氏と単独で和睦する内容となっている。以降佐竹氏は大関氏を半ば支配下に置き、大関氏はしばしの間、佐竹氏と那須氏の両属下となる。熊野牛王宝印の正式な起請文であり、清増宛ではあるが、この頃の家中の実権は高増が掌握していたと見られる。