大石綱元

大石 綱元(おおいし つなもと、天文元年(1532年) - 慶長6年1月12日1601年2月14日))は、戦国時代武将上杉景勝の家臣。

官位は播磨守[1]。別名は兼綱。

略歴[編集]

武蔵国出身。父は大石綱資(元興)大石吉綱の養子。武蔵の守護代を務めた大石氏の一族とみられる。

はじめ上杉憲政の家臣だった[1]。憲政が越後に逃れると、それに従い、憲政の死後は景勝に仕えた[1]

慶長3年(1598年)、上杉氏が会津に転封した際には保原城城代を務める[2][3]。知行高は5500石だった[3]

直江兼続の下で、安田能元岩井信能と共に奉行として国政を補佐し、会津三奉行と呼ばれた[1]。特に街道や城下整備などの土木建築分野を得意としていた。

子孫[編集]

子孫に上杉斉定治世下の奉行である大石綱豊らがいる。

脚注[編集]

参考文献[編集]

  • 米沢市史編さん委員会 編『米沢市史』 第二巻《近世編1》、米沢市長、1991年3月30日。NDLJP:9572114 (要登録)

外部リンク[編集]