大町定夫

大町 定夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 山口県光市
生年月日 (1953-04-21) 1953年4月21日(70歳)
身長
体重
183 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1979年 ドラフト外
初出場 1980年5月27日
最終出場 1983年8月17日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

大町 定夫(おおまち さだお、1953年4月21日 - )は、山口県光市出身の元プロ野球選手投手)。1983年登録名大町 定生(読みは同じ)。

現在は、阪神タイガースの球団職員。

来歴・人物[編集]

柳井商高では1年次の1969年に秋季中国大会で準々決勝に進むが、米子東高に敗退。その後は県予選で敗れて甲子園には出場できず、卒業後の1972年新日本製鐵光へ入社。

1973年からは偏光グラスをかけ出してプロでもトレードマークになる。1973年のドラフト太平洋クラブライオンズに6位で[1]1975年のドラフトではロッテオリオンズに2位で指名されたが、どちらも拒否して新日本製鐵光でのプレーを続けた[1]

1978年には創部17年目で都市対抗野球初出場を果たし、1回戦で先発するが日本通運に惜敗[2]。この時のチームメイトに大町をリリーフした山本和男がいる。

1979年の都市対抗では初出場の三菱重工広島に補強されて出場し、1回戦から5連投で3勝を記録すると、決勝でも先発し熊谷組に9回逆転勝ちで初優勝の原動力となった[2]。最高殊勲選手に与えられる橋戸賞を受賞し、第4回インターコンチネンタルカップ日本代表に選出され、日本の準優勝に貢献。同年オフにドラフト外で阪神タイガースへ入団[1]

1980年から主に中継ぎとして37試合に登板。

1981年には主に抑えとして50試合登板で7勝8セーブ、防御率1.91の成績を収めた。

1982年には4月末から先発陣の一角として起用されるが結果を残せず。

1983年限りで現役を引退[1]

実働僅か4年の現役生活であったが、引退後は、スコアラーやマネージャーを歴任し、2000年には営業部の課長に昇進。

詳細情報[編集]

年度別投手成績[編集]





















































W
H
I
P
1980 阪神 37 2 0 0 0 2 2 4 -- .500 284 71.2 61 10 14 4 3 45 0 0 25 22 2.75 1.05
1981 50 0 0 0 0 7 1 8 -- .875 338 79.2 71 4 28 8 6 41 0 0 20 17 1.91 1.24
1982 35 9 0 0 0 2 3 0 -- .400 311 71.2 76 18 17 2 5 42 0 0 48 41 5.13 1.30
1983 21 1 0 0 0 0 1 0 -- .000 123 27.1 30 3 10 1 3 16 0 0 17 14 4.61 1.46
通算:4年 143 12 0 0 0 11 7 12 -- .611 1056 250.1 238 35 69 15 17 144 0 0 110 94 3.38 1.23

記録[編集]

  • 初登板:1980年5月27日、対中日ドラゴンズ6回戦(阪神甲子園球場)、7回表に2番手として救援登板、1/3回無失点
  • 初奪三振:1980年5月28日、対中日ドラゴンズ7回戦(阪神甲子園球場)、8回表に堂上照から
  • 初先発:1980年7月16日、対横浜大洋ホエールズ14回戦(横浜スタジアム)、4回2/3を2失点
  • 初勝利:1980年8月6日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、4回裏1死に2番手として救援登板、5回1失点
  • 初セーブ:1980年8月21日、対広島東洋カープ17回戦(広島市民球場)、8回裏に2番手として救援登板・完了、2回無失点
  • 初先発勝利:1980年10月15日、対中日ドラゴンズ26回戦(ナゴヤ球場)、7回3失点

背番号[編集]

  • 18 (1980年 - 1983年)

登録名[編集]

  • 大町 定夫 (おおまち さだお、1980年 - 1982年)
  • 大町 定生 (おおまち さだお、1983年)

脚注[編集]

  1. ^ a b c d プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、112ページ
  2. ^ a b 「都市対抗野球大会60年史」日本野球連盟 毎日新聞社 1990年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]