大牟礼南島

大牟礼 南島(おおむれ なんとう、1876年 - 1935年)は、日本洋画家大牟礼 南塘とも表記される。本名・時艾(ときはる)。鹿児島洋画壇の祖といわれている。

人物[編集]

種子島の現西之表市出身。中学造士館卒業後、大阪を経て上京し、東京美術学校西洋画科に入学。黒田清輝に師事し、1900年に卒業して鹿児島県に戻る。鹿児島市の西本願寺前にアトリエを開設。アトリエで公開制作をしたり、春田屋呉服店のショーウインドウに大きなロマン主義美人画を飾ったりと衆目を集め、また確認しうる鹿児島最古の洋画団体「青蛙会」を結成した。

1911年から1930年の約20年間にわたり鹿児島県立第二鹿児島中学校 (旧制)で美術教員を務め、多くの後進を育成した。鹿児島二中での主な教え子に谷口午二安達真太郎安藤照、岩松淳(八島太郎)、小倉静三坂元盛愛、島津久幹(加藤久幹)、黒田清文・黒田清徳兄弟[1]、佐川源治[2]らがいる。二中では日常的な奇行が有名で、頭でっかちのため「ビンタさあ」[3]というあだ名がついていた。晩年は西洋画だけでなく水墨画もよくした。

作品[編集]

  • 西郷隆盛の肖像画がよく知られている。これは、西郷没後五十年祭にあたり依頼されたもので、西郷隆盛の風貌を研究し、孫で鹿児島二中卒の西郷隆治をモデルにしたと言われている。東郷平八郎や西郷家の親類にもよく似ていると好評だった。
  • 「桜島大爆発図」は三色刷絵はがきになって全国で販売された。

脚注[編集]

  1. ^ 黒田清輝の親戚で七人兄弟全員鹿児島二中卒。次男清次は発明家かつ信用金庫創立者で社内ブラスバンドを編成、三男清徳は東京美術学校西洋画科卒で母校鹿児島二中と鹿児島一高女の教員、四男清文は軍人から東京美術学校西洋画科で鹿児島一高女教員、五男清純は東京美術学校鋳造科卒・文展工芸部第一回入選で県立工業高校等の教員かつ発明家、六男清高は国立音楽学校卒のバイオリニストで大連にて音楽教師、という芸術兄弟として知られた。(南日本新聞社・編『郷土人系 下』(春苑堂書店、1970年)83頁)
  2. ^ 東京美術学校進学。不詳。
  3. ^ 「ビンタ」は「頭」、「さあ」は「様」や「さん」という意味の鹿児島弁。

出典[編集]

  • 鹿児島市立美術館・編『20世紀回顧・鹿児島と洋画展』(20世紀回顧・鹿児島と洋画展実行委員会、2000年)13-14,134頁
  • 南日本新聞社・編『郷土人系 下』(春苑堂書店、1970年)59-61頁
  • 維新ふるさと館情報紙No.20(2017年冬季号) - リンク先に大牟礼による西郷隆盛肖像画掲載