大杉栄

大杉おおすぎ さかえ
雑誌「改造」に掲載された大杉(1921年頃)。
生年 1885年1月17日
生地 日本の旗 日本愛媛県那珂郡丸亀
没年 (1923-09-16) 1923年9月16日(38歳没)
没地 日本の旗 日本東京府東京市麹町区大手町
(現:東京都千代田区大手町)
大日本帝国陸軍憲兵隊司令部
思想 無政府主義
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大杉 栄(おおすぎ さかえ、大杉榮、1885年明治18年〉1月17日 - 1923年大正12年〉9月16日)は、日本無政府主義者思想家作家ジャーナリスト翻訳家社会運動家エスペランティスト自由恋愛主義者でもあった。

生涯[編集]

幼少期[編集]

大杉は1885年(明治18年)に愛媛県[1]那珂郡丸亀(現・香川県丸亀市)で生まれた。父親の大杉東(おおすぎ あずま)は愛知県海東郡越治村(現・愛知県津島市)出身の大日本帝国陸軍近衛師団の前身である常時陸軍の軍人で、代々庄屋の家系で親戚にも軍人が多数いる家庭環境だった。その後、東は東京に移って近衛少尉として勤務し、大隊長の仲介によって母・とよと結婚した。栄は次男で、はる、きく、伸、まつゑ、勇、進、あき、あやめの兄弟姉妹がいる大家族だった。容姿や性格は母親似だったと言われる[2]。当初は東京・麹町区の幼稚園に通園するが父・東が近衛師団(近衛連隊)から新潟県新発田市に赴任したため、14歳までの長期間を新発田市で暮らした。日清戦争日露戦争にも従軍した東から祈りに触れて軍人として仕込まれたこともあって、元帥を目指すという高邁な精神で1899年(明治32年)に名古屋陸軍地方幼年学校に入学した。ドイツ語科を希望するも定員に満たなかったことからフランス語科に回されたが、これは後の思想家の誕生に役立った[2]

学生時代~社会主義への接近[編集]

名古屋陸軍地方幼年学校では武道に熱中するあまり学業の成績は良からぬ点があり、学校内では奔放な生活を送った。同性愛に走って[3]修学旅行では下級生による性的な戯れに対して禁足30日の処分を受けた。「下士官どもの追究が残酷」「尊敬も親愛も感じない上官への服従を盲従」という考えから教官に対して反抗[4]することが増えて憂鬱になり、「(故郷である)新発田の自由な空を思う」ように至ったとの理由から軍医によって脳神経症と診断され、休暇を与えられた。栄は幼年学校の外に出れば快活な少年として過ごせたが学校へ戻ると再び凶暴な少年となり、同期生徒の喧嘩で相手からナイフで刺される騒動を起こし、1901年(明治34年)に在学僅か2年で退学処分となった。退学直前の栄の成績は極端なもので、実科では主席、学科では次席であるにも関わらず、操行では最下位だった。

軍隊生活の窮屈から解放された栄は父親の許しを得ずに文学を志すことを決め、語学研究と称して1902年(明治35年)に上京して順天中学校へ入学した[5]1903年(明治36年)には東京外国語学校(現・東京外国語大学)仏文科に入学したが、この頃に母・とよが亡くなり、栄は牛込の下宿先で友人に勧められて「進化論」を原書で読み、足尾鉱毒事件への追及運動に栄と共に下宿していた友人が参加したことに触発され、定価が最も安かった「萬朝報」を購読して軍隊外の社会に目を向けた。幸徳秋水堺利彦の名もこの頃に知り、彼らの提唱する非戦論に共鳴して平民社の結成を知ると訪れて講演会に参加したり、1904年(明治37年)3月に開催された社会主義研究会に出席した。大杉は次第に社会主義に感化されて頻繁に平民社へ出入りしたり、のちにこの時期を回想して雑誌「改造」に自叙伝として発表したが、この自叙伝は栄の死後に未完ながらも単行本にまとめられた[6]

社会主義に感化[編集]

1920年頃

1905年(明治38年)3月頃、平民社が発行していた週刊「平民新聞」の後継紙である「直言」に堺が書いた紹介記事によってエスペラントを知り、1905年(明治38年)7月に東京外国語学校仏語学科選科を修了した[7]。その後、翌年にかけて東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開校させ[8]1906年(明治39年)3月には東京市内電車の運賃値上げに反対する市民大会に関与したとして兇徒聚集罪により逮捕されたが、6月に釈放された。しかし、同年11月には新聞に掲載された「新兵諸君に与ふ」が新聞紙条例違反で起訴され、これ以降は言論活動で社会主義運動に関わっていった。1908年(明治41年)1月17日にはいわゆる屋上演説事件[9]によって治安警察法違反容疑で逮捕された。同年6月22日には東京・神田にあった映画館「錦輝館」で発生した赤旗事件によって再び逮捕され、これまでの量刑も含んで2年6ヶ月にわたって千葉刑務所へ収容された。獄中ではさらに語学を学びながらアナキズムの本も多数読破した。1910年(明治43年)9月には東京監獄に移されて秋水らの大逆事件に関連した取調べを受けるが11月に出所し、堺らと「売文社」を結成する。

1911年(明治44年)1月24日に秋水らが処刑されたことで社会主義運動が一時的に後退する中で、大杉は荒畑寒村と共に1912年(大正元年)10月に近代思想1914年(大正3年)10月に平民新聞を発刊し、定例の社会主義研究会を開催して運動を活発化させようとするが、いずれも発禁処分を受けて経済的な収入が途絶える。この頃にチャールズ・ダーウィンによる「The Origin of Species」を「種の起原」という題名で翻訳出版するが、アナキズムの立場を鮮明にしてきた大杉の態度に荒畑や以前からの同志から反発を受け、復活させた近代思想も1916年(大正5年)初めに廃刊となった。同年には伊藤野枝との恋愛も始まり、大杉は次第に研究会への参加も減っていく。しかし大杉には妻・堀保子[10]との結婚生活も続く状況において、11月9日に以前からの恋愛相手だった神近市子によって刺される日蔭茶屋事件が発生した[11]。大杉は事件によって重傷を負うが世間は市子に同情的だった。その理由として市子は大杉を身を粉にして経済面でサポートしていたためで、野枝を魔性の女や悪魔のように噂していた大杉の評判はあっという間に地に落ち、同志からも完全に孤立した。大杉は野枝との共同生活を始めるが生活資金にも事欠くようになった。また、大杉は自由恋愛論者で、妻・保子との結婚は居候中に強姦したことによる結婚[疑問点][12]で、当時の保子は深尾韶と婚約していたが破棄となった。さらに大杉は保子と入籍せず、市子に続けて野枝とも愛人関係となって、野枝は長女・魔子(のちに改名して真子)を妊娠した。大杉は女性から常に経済的援助を受けていたが、大杉の愛情が野枝とその子供である魔子に移ったのを嫉妬した市子によって日蔭茶屋事件が発生したのである。事件によって市子は入獄し、大杉は保子と離別したために野枝と家庭を持つが依然として入籍はせず、次女・エマ[13]、三女・エマ[14]、四女・ルイズ[15]、長男・ネストル[16]をもうけた。次女・エマ以外は大杉と野枝の死後に野枝の実家に引き取られ、戸籍を届ける時に改名されたものである。

1917年(大正6年)9月に長女・魔子[17]が誕生し、村木源次郎だけは大杉の家に同居して家事を手伝う。同年末に大杉らは労働者の町として知られた東京・亀戸へ移住し、野枝と文明批評を創刊する。大杉のもとには和田久太郎久板卯之助が加わり、この件が前年のロシア革命勃発の影響もあって労働運動が盛り上がる機運となった。1918年(大正7年)2月には同志たちとの関係修復を図ろうと研究会も定期的に開催させ、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強めながら九州、関西を周回し、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにした。1919年(大正8年)1月には近藤憲二らが主催し、労働者も参集していた北風会と研究会を統合させて「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける。同年9月には「東京労働同盟会」と改称して機関紙「労働運動」を刊行させ、拠点となる労働運動社に仲間が集まる。

海外での社会主義活動[編集]

売文社のメンバーの集合写真
左の白いシャツの人物から新居格、大杉、堺、山崎今朝弥山川均近藤栄蔵で左奥の人物は不明。
大杉と伊藤野枝(1920年代)

1920年(大正9年)の不況下においても労働争議が増加し、次第に大杉の活動は広がっていく。ピョートル・クロポトキンの著作翻訳に加えて演説会の開催や、メーデーを前にしての事前検束も受ける。10月には中華民国上海で開催された社会主義者の集会に加わって11月に帰国し、12月9日には社会主義者同盟結成に向けて鎌倉にあった大杉の自宅に40名余りが集まる。

1921年(大正10年)1月、コミンテルンからの資金でアナ・ボル(アナキスト・ボルシェヴィキ)共同の機関紙としての労働運動(第二次)を刊行させるが、腸チフスを悪化させて入院する。さらに6月にはボルの井伊らに裏切られて共同路線が破綻し、労働運動紙は僅か13号で廃刊に追い込まれる。それでも同年12月にはアナキストだけで労働運動(第三次)を復刊させる。

1922年(大正11年)2月、大杉は福岡県八幡市(現・福岡県北九州市)での官営八幡製鐵所罷工2周年記念演説会に参加する。ここでは労働運動紙においてソビエト政府のアナキスト達への弾圧を報告し、信友会の有志、労働運動社の同志と労働組合の連合を目指すために全国労働組合総連合会の発足に努力するが、9月30日にサンディカリズム派と総同盟派との対立にボルも介在して結成は失敗となり、アナ・ボル論争は激化した。後に大杉への追悼詩「杉よ!眼の男よ!」を執筆する中浜哲はこのタイミングで大杉に接近し、労働運動紙へ労働争議の現場報告と詩を頻繁に掲載した。8月には富川町で「自由労働者同盟」を結成して新潟と中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴いたほか、10月にはギロチン社を古田大次郎らと結成する。大杉は12月、翌年にドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加するため再び日本を脱出する。

1923年(大正12年)1月5日に上海からフランス船籍の船に乗車し、中国人に偽装して中華民国からフランスに向かった。マフノ運動の中心人物であるネストル・マフノと接触も図る目的もあり、アジアでのアナキストの連合も意図し、上海およびフランスで中国のアナキストらと会談を重ねる。2月13日にマルセイユに到着するが大会が延期となり、フランスから国境を越えるのも困難になる中で大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕される。異国の地で逮捕された大杉はラ・サンテ監獄に送られ、そこで大杉本人と発覚して裁判後に強制退去処分となる。そのままフランスの日本領事館の手配でマルセイユから箱根丸に乗船し、7月11日に神戸に戻る。その際、大杉はパリにある日本大使館からの反対意見によって、乗船切符が二等船室になったことを恨む記述を「日本脱出記」に書いている。滞在記については滞仏中から発表され、これらも日本脱出記としてまとめられる。かつて豊多摩刑務所収監中に翻訳(初の日本語訳)したファーブル昆虫記が「昆虫記」の名で出版されたが、これ以降の大杉は東京に落ち着き、8月末にアナキストの連合を意図して集まりを開くが、進展を図る前に関東大震災に遭遇する。

最期[編集]

静岡市葵区沓谷一丁目の市営沓谷霊園にある墓(2019年9月)

関東大震災から僅か2週間後の1923年(大正12年)9月16日、自宅近くから妻の伊藤野枝、甥で6歳の橘宗一[18]と共に憲兵隊特高課に連行され、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって殺害され、遺体が井戸に遺棄された(甘粕事件)。38歳没。殺害の実行犯として憲兵大尉の甘粕とその部下が軍法会議にかけられ、有罪判決となった。公判内容は毎回新聞報道された。

震災後、政府は朝鮮と日本のアナキストの連合グループや不逞社の朴烈金子文子大逆事件で調査した。その中でメンバーの一人で獄死した新山初代は震災直前の8月に大杉へ勉強会での講師を依頼しており、大杉の呼びかけで開催した集会にも出席していた。これらの事実は警察がまとめた訊問調書に記載され、公判記録としてアナーキズム(『続・現代史資料』3、みすず書房、1988年7月)に収載されている。

12月16日、自由連合派の労働組合とアナキスト各団体が主催となり、殺害された3人の合同葬が行われる。この際、右翼団体大化会のメンバーが弔問客を装って大杉の遺骨を持ち去る事件が起きた(大杉栄遺骨奪取事件)。遺骨は9日後に大化会会長の岩田富美夫が警察に届け出て、翌年5月に警察から遺族に返還された。労働運動社の和田久太郎村木源次郎はギロチン社の中浜哲古田大次郎らと共同して殺害への報復を意図し、翌年の一周忌までに政府へ攻撃を企てるが失敗した。

大杉の遺骨は野枝の郷里である福岡県で埋葬されたが、野枝が地域から快く思われていなかったこともあって損壊が相次ぎ[19]、静岡県静岡市の共同墓地に改めて墓が作られた[20]2023年(令和5年)9月16日、甘粕事件から100年を迎えた節目として墓前祭が行われ、約50人が参列した[21]

逸話[編集]

大杉は、家族でも聞き取れない程の重度の吃音に生涯悩まされ続けていた。特にか行の発音では目を瞬きさせて「金魚が麸を飲みこむような口つきになった」という。陸軍幼年学校時代も「下弦の月」とどうしても発言できず、「上弦ではありません」と言ってその場をやり過ごしたり(その代わり「性格がひねくれている」と教官の心証を害したという)、後藤新平のもとへ金を借りに向かったところ、500円を借りる予定だったものが「ゴ」の発音が出ず、仕方なく300円を借りたエピソードもある。

後藤新平・内務大臣からの資金援助[編集]

前述のように後藤から300円の資金援助を受けたとされる。1923年(大正12年)12月17日衆議院予算委員会において後藤が第2次山本内閣内務大臣として行った答弁によれば、寺内内閣の内務大臣として大杉に2回にわたって計500円を渡しており、大杉への資金提供は「歴代ノ内務大臣ガヤッテ居ッタコトテアル」と述べている[22]

著作[編集]

自叙伝[編集]

  • 『獄中記』 1919年
  • 『自叙傳』 1923年
  • 『日本脱出記』 1923年

翻訳[編集]

機関紙誌(大杉栄が編集・刊行に関与)[編集]

  • 『近代思想』
  • 『平民新聞』
  • 『文明批評』
  • 『労働運動』

(いずれも復刻版が刊行されている)

論文等[編集]

  • 『生の闘争』 1914年、1923年4月30日
  • 『社会的個人主義』 1915年発禁
  • 『労働運動の哲学』 1916年発禁
  • 『乞食の名誉』1920年伊藤野枝との共著
  • 『クロポトキン研究』 1920年
  • 『正義を求める心』 1921年9月9日
  • 『悪戯』1921年
  • 『二人の革命家』 1922年伊藤野枝との共著
  • 『漫文漫画』 1922年 望月桂との共著
  • 『無政府主義者の見たロシア革命』1922年

近藤憲二編集[編集]

  • 『随筆集生の闘争』1923年
  • 『日本脱出記』 1923年
  • 『自叙傳』 1923年
  • 『自由の先驅』 1924年
  • 『大杉栄全集』アルス版 1925年 - 1926年

同志の著作[編集]

  • 『死の懺悔』1926年 古田大次郎 春秋社
  • 『獄窓から』1930年 和田久太郎
  • 『死刑囚の思い出』 1930年発禁 古田大次郎

追悼号[編集]

  • 『改造』 1923年11月 大杉栄追想号
  • 『中央公論』 1923年11月「吾が回想する大杉」佐藤春夫
  • 『労働運動』1924年3月大杉栄・伊藤野枝追悼号
  • 『祖国と自由』 1925年9月 大杉栄追悼号

1960,70年代刊行著作、関連書[編集]

  • 『大杉栄全集』全14巻、現代思潮社
  • 大澤正道『大杉栄研究』、同成社、1968年7月
  • 秋山清『大杉栄評伝』、思想の科学社、1976年11月

1980年以降の出版[編集]

  • 『大杉栄訳 ファーブル昆虫記』(ジャン=アンリ ファーブル(著),小原秀雄(著),大杉栄(訳)、明石書店、2005年)
  • 『日録・大杉栄伝』(大杉豊、社会評論社、2009年)
  • 『日本脱出記』(大杉豊解説、土曜社、2011年)
  • 『自叙伝』(大杉豊解説、土曜社、2011年)
  • 『獄中記』(大杉豊解説、土曜社、2012年)
  • 『KAWADE道の手帖 大杉栄』(河出書房新社、2012年)
  • 『大杉栄と仲間たち』(ぱる出版、2013年)
  • 『大杉栄追想』(大杉豊解説、土曜社、2013年)
  • 『My Escapes from Japan』(マイケル・シャワティー訳、土曜社、2014年)『日本脱出記』英訳版
  • 『大杉栄書簡集』(大杉豊編、土曜社、2018年)

関連作品[編集]

小説[編集]

  • 『美は乱調にあり――伊藤野枝と大杉栄』 瀬戸内寂聴著、岩波現代文庫、2017年
  • 『諧調は偽りなり――伊藤野枝と大杉栄(上・下)』 瀬戸内寂聴著、岩波現代文庫、2017年

映画[編集]

テレビドラマ[編集]

演劇[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 1876年(明治9年)の第2次府県統合によって香川県・松山県・宇和島県が統合され、1888年(明治21年)まで愛媛県という1つの県だった。
  2. ^ a b 村上 1925, p.230
  3. ^ 中村彝の次兄・中村中と恋仲となったと言われるが。中は器械体操の授業で胸を強打したのが原因で急逝している。
  4. ^ 大杉 1923, pp.110-134
  5. ^ 村上 1925, p.231
  6. ^ 大杉 1923
  7. ^ 『官報』第6610号、明治38年7月13日、p.552
  8. ^ 『東京外国語学校一覧』には卒業後の職業としてエスペラント学校教師とある。『東京外国語学校一覧 従明治39年至明治40年』東京外国語学校、1906年11月30日、100頁。NDLJP:813025/57 
  9. ^ 平民書房で行われていた金曜会に対して警察が解散を命じたことに反発し、堺が平民書房の2階から群衆に向けて警官の迫害を訴えた事件。
  10. ^ 文学者・堀成之の娘で、堺の妻の妹にあたる。
  11. ^ 神奈川県葉山町にあった旅館で、現在は「日影茶屋」の屋号で日本料理店として営業している。【老舗あり】神奈川県葉山町 日影茶屋/葉山とともに歩む名店産経新聞』朝刊2018年8月6日(2018年10月18日閲覧)参照。
  12. ^ 市原正恵「もうひとりの明治社会主義者――深尾韶の生涯」『思想の科学』第75巻、思想の科学社、1977年、83-97頁。
  13. ^ のち改名して「幸子」。
  14. ^ のちに改名して「笑子」。
  15. ^ のちに改名して「留意子」。
  16. ^ のちに改名して「栄」。
  17. ^ 誕生前に悪魔と言われたことを逆手にとって命名したもの。大杉は溺愛した。
  18. ^ 大杉の妹の長男で、宗一の墓は名古屋の日泰寺にある。
  19. ^ 「無名碑の墓石山中に」『読売新聞』2023年9月9日九州版27面
  20. ^ 静岡)大杉栄らの墓前祭、色とりどりのバラ献花”. 朝日新聞DIGITAL (2019年9月16日). 2023年9月12日閲覧。
  21. ^ 「権力の横暴は忘れない」甘粕事件から100年 静岡で最後の墓前祭”. 西日本新聞 (2023年9月17日). 2023年9月18日閲覧。
  22. ^ 駄場裕司『後藤新平をめぐる権力構造の研究』(南窓社、2007年)223頁。

参考文献[編集]

  • 市原正恵「静岡市における大杉栄・伊藤野枝・橘宗一追悼の三十年」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 伊藤英一「「大杉栄のビラ撒き」・一九〇四年夏-平民新聞「名古屋より」の謎」、『初期社会主義研究』第7号、1994年3月。
  • 上杉省和「大杉栄」、田中浩編『近代日本のジャーナリスト』、御茶の水書房、1987年2月。
  • 梅森直之「規律と反抗の日々-大杉栄、名古屋幼年学校の八三五日」、『初期社会主義研究』第9号、1996年9月。
  • 梅森直之「名あて人なき民主主義-大杉栄における「生命」と「主体」」、飯島昇藏編『両大戦間期の政治思想』、新評論、1998年3月。ISBN 4-7948-0397-4
  • 梅森直之「芸術としての労働運動-大杉栄における「歴史」の問題」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 大沢正道『大杉栄研究』、同成社、1968年7月(法政大学出版局より1971年7月に同標題で新版発行)。
  • 大澤正道「大杉栄研究拾遺」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 大澤正道編「大杉栄年譜」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 大杉豊「大杉栄、親・弟妹との絆」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 大杉豊『日録・大杉栄伝』、2010年9月。
  • 太田雅夫「大杉栄の自筆原稿と落書-「死灰の中から」の原稿を中心に」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 大和田茂「大杉栄、叛逆精神とメディア戦略」、『國文學 解釈と教材の研究』第47巻第9号臨時号、2002年7月。
  • 岡崎正道「大杉栄-国家・社会「秩序」への挑戦」、岡崎正道『異端と反逆の思想史-近代日本における革命と維新」、ぺりかん社、1999年1月。
  • 荻野正博『自由な空-大杉栄と明治の新発田』、新潟日報事業社出版部、1988年9月。
  • 川上哲正「大杉栄のみた中国」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 近藤真柄ほか『九月は苦の月-橘宗一少年の墓碑保存運動の十年』、橘宗一少年の墓碑保存会、1985年9月。
  • 後藤彰信「大杉栄、佐々木喜善との交友と平民社参加の頃」、『初期社会主義研究』第16号(特集=平民社百年)、2003年11月。
  • 竹中労(貝原浩イラスト)『大杉栄』(『For Beginners』イラスト版オリジナル)、現代書館、1985年5月。
  • 竹中労『断影 大杉栄』(『ちくま文庫』)、筑摩書房、2000年3月。
  • 西山拓「大杉栄の「新しき村」批評-アナキズムと共同体主義の接点」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 飛矢崎雅也「大杉榮の個人主義とその自我思想」、明治大学大学院『政治学研究論集』第16号、2002年9月。
  • 飛矢崎雅也『大杉榮の思想形成と「個人主義」』、東信堂、2005年9月。ISBN 4-88713-629-3
  • 堀切利高解説「大杉栄ほか死因鑑定書」、『大正労働文学研究』創刊号、1978年10月。
  • 堀切利高解題「堀保子・伊藤野枝・神近市子-資料」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 松本伸夫『日本的風土をはみだした男-パリの大杉栄』、雄山閣出版、1995年4月。
  • 宮本正男 『大杉栄とエスペラント運動』、黒色戦線社、1988年。
  • 村田裕和「「近代思想」における大杉栄の批評の実践性について」、『立命館文学』第581号、2003年9月。
  • 望月明美「大正・千駄木・大杉」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 山泉進「大杉栄、コミンテルンに遭遇す-(付)李増林聴取書・松本愛敬関係資料」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 山泉進編「大杉栄著書目録(稿)」、『初期社会主義研究』第15号(特集=大杉栄)、2002年12月。
  • 米沢幸三「大杉栄のユートピア思想」、『無政府主義研究』第8号、1977年12月。
  • Herbert Worm, Studien uber den jungen Osugi Sakae und die Meiji-Sozialisten zwischen Sozialdemokratie und Anarchismus unter besonderer Berucksichtigung der Anarchismusrezeption, Hamburg : Gesellschaft fur Natur- und Volkerkunde Ostasiens, 1981.

関連項目[編集]

外部リンク[編集]