夏目信政

夏目 信政(なつめ のぶまさ、? - 安永2年6月12日1773年))は、江戸幕府旗本。通称は久之丞、藤四郎。母は遠藤七左衛門の娘で、妻は藤方主膳重堯の娘[1]

略歴[編集]

夏目信政の墓(長崎市本蓮寺)

木村弥七郎恒忠の三男として生まれる。後に夏目信氏の養子となり、享保17年(1732年)8月5日に家督を継ぐ。騎射や流鏑馬などの射手として伺候し、時服や黄金などを賜る[1]

元文元年(1736年)4月27日、書院番の番士となる。放鷹に供奉した際に、鳥を射落として時服を賜る[1]

寛保元年(1741年)6月18日、進物の掛となる[1]

延享3年(1746年)8月3日、小納戸に就任。同年12月18日、布衣の着用を許される[1]

宝暦10年(1760年)4月1日、江戸城西丸勤めとなり、同年5月13日より二の丸に勤仕する[1]

翌11年(1761年)8月4日、徳川家重が薨去したことに伴い寄合席となる。同年9月6日、小納戸に再任する。同年12月15日、腰物奉行に就任。同12年(1762年)12月28日、目付となる[1]

明和2年(1765年)5月29日、日光山東照宮150回目の法会に携わり当地に赴いた褒美として時服2領を賜る。同年7月28日、佐渡奉行になる[1]

同6年(1769年)9月24日、普請奉行に就任。同年12月18日、従五位下となり和泉守を称する[1]

同7年(1770年)6月17日、長崎奉行に就任し、蔵米50俵を加増される[1][2]

安永2年6月12日、赴任先の長崎にて死去。享年62。法名は日貞。同地の本蓮寺に葬られる[1][3]。夏目の死は、オランダ商館長の日記には、毒殺の疑いがあると書かれている[4]

夏目の日記として『夏目和泉守様御在勤日記』が遺されている。長崎歴史文化博物館に所蔵されており、1行約20文字、1頁34行程度で全54頁。冒頭には「安永二年七月十四日 夏目和泉守様御在勤」と書かれている。『長崎奉行遠山景晋日記』の編者の1人・戸森麻衣子によれば、「御用部屋で書き継がれた日記原本ではなく、御用部屋日記を抜粋して写したもの」と考えられている[5]

脚注[編集]

注釈[編集]

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k 「夏目信政」『新訂 寛政重修諸家譜』第六 株式会社続群書類従完成会、166頁。
  2. ^ 本田貞勝『長崎奉行物語』 雄山閣、103頁。
  3. ^ 「本蓮寺」『長崎県大百科事典』長崎新聞社、793頁。「本蓮寺」『長崎県の地名 日本歴史地名大系43』平凡社、142頁。「本蓮寺」『角川日本地名大辞典 42 長崎県』角川書店、882頁。本田貞勝『長崎奉行物語』 雄山閣、86頁、108頁。
  4. ^ 秦新二・竹之下誠一『田沼意次 百年早い開国計画 海外文書から浮上する新事実』文藝春秋企画出版部、74頁、280頁。
  5. ^ 本田貞勝『長崎奉行物語』 雄山閣、107-108頁。

参考文献[編集]