坂合部氏

坂合部氏(さかいべうじ)は、「坂合部」・「境部」・「堺部」をの名とする氏族

概要[編集]

坂合部氏については、境界の画定に当たった部と、その伴造とする説が有力である。

新撰姓氏録』「摂津国皇別」によると、坂合部氏は阿倍朝臣と同じく「大彦命之後也」とあり、「允恭天皇御世。造立国境之標。因賜姓坂合部連」という氏族名の由来があげられている。「大和国皇別」には、「坂合部氏」についても、「阿倍朝臣同祖、大彦命之後也」とあげられている。

これら阿倍氏の系譜に繋がる皇別の2つの氏のほかに、「左京神別」にある「坂合部宿禰氏」は「火明命八世孫邇倍足尼之後也」とあり、「右京神別」にある「坂合部宿禰氏」は「火闌降命八世孫邇倍足尼之後也」とある。「和泉国神別」にも「火闌降命七世孫夜麻等古命之後也」とある。この「火明命」と「火闌降命」は兄弟神であり、前者は尾張氏などと同根である。

歴史上で活躍した坂合部氏としては、上記の「左京神別」に連なる坂合部宿禰氏(元坂合部連氏)が有名であるが、このほかにも蘇我氏の親族で、蘇我馬子の弟にあたる境部摩理勢や、同族の境部雄摩侶のような蘇我氏系列のものも存在した。こちらのである。

これらのほかに、『古事記』によると、綏靖天皇の兄である神八井耳命の後裔で、意富(多)氏小子部氏の縁戚とする「坂合部連氏」[1]、漢人系とする「坂合部首氏」が存在する。

日本書紀』・『続日本紀』によると、坂合部氏が活躍したのは7世紀以降の、外交関係・朝鮮半島への軍事関係の記事が目立っている。前述の境部雄摩侶は新羅征討の将軍であり、坂合部宿禰磐積坂合部連磐鍬坂合部宿禰大分は遣唐使に任命されている。このほか、坂合部連薬有間皇子の変に連座し、壬申の乱では近江軍として活躍しており、坂合部宿禰唐大宝律令の撰定に参加している。

坂合部一族は、畿内播磨国美作国越前国に分布が見られる。

脚注[編集]

  1. ^ 『古事記』中巻、神武天皇段

参考文献[編集]

関連項目[編集]