和讃

和讃(わさん)は、菩薩、祖師・先人の徳、経典教義などに対して和語を用いてほめたたえる讃歌である。声明の曲種の一。サンスクリット語を用いてほめたたえる「梵讃」、漢語を用いてほめたえる「漢讃」に対する。

七五調の形式の句を連ねて作られたものが多く、これに創作当時流行していた旋律を付して朗唱する。

原型である「讃歎」(さんだん)を和讃の一種とみなす事もある。

概要[編集]

作者が推定とされるものについては、作者名の前に「」を付す。

作者の生没年は、西暦で表示する。そのため和暦を換算した西暦と異なる場合がある。

原型[編集]

和讃の原型である「讃歎」(「仏教讃歎」、「讃談」とも)は、古く奈良時代にさかのぼる。和文の声明(しょうみょう)で、曲調は「梵讃」・「漢讃」に準ずる。歌体は、一致しない。法会の奉讃供養に用いる歌謡として作られたと考えられている。

光明皇后(701年 - 760年)、もしくは行基(668年 - 749年)
『法華讃歎』(ほつけさんたん)[1]
行基
『百石讃歎』(ももさかさんだん)[1]
文室真人智努(ぶんよのまひとちぬ)(693年 - 770年)
仏足石歌』(ぶっそくせきか)
天平勝宝5年(753年)の作
薬師寺の「仏足石」(国宝)の後方に「仏足跡歌碑」(国宝)が残る。
万葉仮名を用いる。歌体は、五 - 七 - 五 - 七 - 七 - 七調で「仏足跡歌体」と呼ばれる。
円仁(794年 - 864年)
『舎利讃歎』(しゃりさんだん)
「讃歎」から「和讃」への転換となる。現在は、真言宗にその声明が伝わる。

和讃[編集]

「和讃」は、「讃歎」の流行の後を受け平安時代中期頃には成立・定着する。和讃は、広く民衆の間に流布し、仏教の布教だけでなく、日本の音楽にも大きな影響を与え、民謡や歌謡、ことに演歌などの歌唱法に影響の形跡がある。

古和讃[編集]

平安時代中期〜後期に作成された「古和讃」という。

良源(912年 - 985年)
本覚讃
千観(918年 - 984年)
極楽浄土弥陀和讃
源信(942年 - 1017年)
極楽六時讃
来迎讃』などがある。

ほとんど平安中期の天台浄土教によって流布したものである

鎌倉仏教[編集]

鎌倉時代には、和讃は布教の用に広く認められ、鎌倉仏教各宗で流行をした。また旧仏教である真言宗・天台宗などにも影響が及び、『高僧讃』・『神祇讃』などの和讃が作られた。

親鸞(1173年 - 1263年)
浄土和讃
高僧和讃
正像末和讃
『皇太子聖徳奉讃』75首
『大日本国粟散王聖徳太子奉讃』114首
  • 上記の和讃集の内、『浄土和讃』・『高僧和讃』・『正像末和讃』は、総称して「三帖和讃」と呼ぶ。
  • 『正像末和讃』に収められている「正像末浄土和讃」の58首目は、「恩徳讃[注釈 1]」と呼ばれ、法要や法話の終わりに、和讃を読誦する際とは別の曲調で歌われる。
  • 後に親鸞は、浄土真宗の宗祖とされる。
一遍(1239年 - 1289年)
別願讃
  • 後に一遍は、時宗の宗祖とされる。別名、「遊行上人」。
他阿(1237年 - 1319年)
『浄業和讃』(じょうごうわさん)
『浄業和讃』は、「往生讃」と他13編からなる。
  • 後に他阿を時宗では、「遊行上人二世」・「時宗二祖」とする。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 恩徳讃…如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし

出典[編集]

  1. ^ a b 出典…三宝絵

参考文献[編集]

  • 中村 元福永光司田村芳朗末木文美士・今野 達 編『岩波仏教辞典』(第二版)岩波書店、2002年。ISBN 4-00-080205-4 
  • 名畑應順 校注『親鸞和讃集』岩波書店〈岩波文庫 青318-3〉、1976年。ISBN 4-00-333183-4 

外部リンク[編集]