呂端

呂 端(りょ たん、清泰2年(935年)- 咸平3年(1000年))は、北宋初期の宰相は易直。幽州安次県(現在の河北省廊坊市安次区)の人。中国の格言呂端大事不糊塗[1]」の故事(後述)で知られ、賢臣として名高い。

経歴[編集]

祖先の呂兗末に滄州の義昌軍節度使劉守文劉守光の兄)配下の判官、父の呂琦後晋兵部侍郎、兄の呂余慶は後晋で開封府参軍、北宋において成都府知府・蔡州知州を務めた。

太宗が呂端を宰相に用いようとしたとき、「呂端は、いい加減である(呂端為人糊塗 糊塗:めちゃくちゃな)」と非難する者がいたが、太宗は「端は、些細な事にはいい加減であるが、大事なことはおろそかにしない(端小事糊塗,大事不糊塗)」と言って、至道元年(995年)に呂蒙正をついで宰相となった[2]

太宗崩御後、内侍王継恩[3]による太子を廃し、別の皇帝を立てる陰謀を阻止し、真宗を即位させた。咸平元年(998年)に病のため、宰相の職を辞し、咸平3年(1000年)に66歳で没した。死にあたって、司空を贈官され、正恵を諡号された。

脚注[編集]

  1. ^ 「些事はおろそかにしても、大事なことは決しておろそかにしない」物事に優先度をつけ重要なことをしっかりやることを勧める格言。しばしば、「大事なことをしっかりやれば、些事はいい加減で良い」の意にも使用される。
  2. ^ 宋史』呂端伝
  3. ^ 皇位簒奪疑惑「千載不決の議」の当事者の一人。