吉江資堅

 
吉江資堅
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文6年(1537年
死没 天正10年6月3日1582年6月22日
改名 資賢、信景
別名 喜四郎(通称)
主君 上杉謙信景勝
氏族 吉江氏
益木中務少輔娘
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吉江 資賢(よしえ すけかた)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将長尾氏上杉氏)の家臣。魚津城の戦いにおける守将の一人。

生涯[編集]

近江国出身。上杉謙信に奉公し吉江忠景(吉江佐渡守、中務丞)の名跡を引き継ぐ。謙信の晩年に側近となる。

天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」によると105人の軍役を課せられていた。越中の神保家が上杉家に付くか武田家に付くかで分裂した際には、上杉家に味方させるための工作を行った。

天正6年(1578年)の御館の乱では上杉景勝側につき、手柄を立てた。それ以来景勝の信頼も厚く、河田長親が城主を務める越中国魚津城の守備となり、天正10年(1582年)の魚津城の戦いでは上杉氏の守将となって奮戦するも、同年6月3日に織田信長の家臣・柴田勝家に攻め落とされ自害した。本能寺の変で信長が死去した翌日のことである。享年45。

関連作品[編集]

脚注 [編集]

外部リンク[編集]

先代
吉江信清
吉江家当主
? - 1582
次代
?