吉永猛

吉永猛
騎手時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 宮崎県北諸県郡高城町
生年月日 (1926-03-02) 1926年3月2日(98歳)
身長 151cm(1964年[1]
体重 54kg(〃)
騎手情報
所属団体 日本競馬会
国営競馬
日本中央競馬会
所属厩舎 大久保亀治阪神(1940年-1949年)
渋川久作小倉-阪神(1949年-1965年)
初免許年 1947年(1943年初騎乗)
騎手引退日 1965年
重賞勝利 3勝
通算勝利 1206戦110勝(1954年以降)
調教師情報
初免許年 1965年
調教師引退日 1999年2月28日(定年)
重賞勝利 13勝
G1級勝利 1勝
通算勝利 7493戦670勝
経歴
所属 阪神競馬場(1961年-1971年)
栗東T.C.(1971年-1999年)
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吉永 猛(よしなが たける、1926年3月2日[2] - )は、日本の競馬騎手調教師

1943年に日本競馬会(のち国営競馬日本中央競馬会)で騎手デビュー。兵役を経て1947年より復帰し、1965年までに重賞3勝を含む通算276勝を挙げた。騎手引退後は調教師に転身し、1992年の阪神3歳牝馬ステークスを制したスエヒロジョウオーらを手がけた。1999年に定年引退。調教師通算成績は7493戦670勝、うちGI競走1勝を含む重賞13勝。

同じく中央競馬騎手・調教師であった吉永忍は従弟[3]。自身の門下生であった川村禎彦は娘婿[2]

経歴[編集]

宮崎県北諸県郡高城町出身[2]。近郊の三股町には競馬場があり、農家であった父と叔父は飼養する馬をそこで走らせていた。吉永はそれを頻繁に見物し、また近くの駐屯地にいた軍馬の美しさにも惹かれ、将来に騎手を志した[2]尋常小学校卒業後、同県出身の騎手・北村末雄の紹介で日本競馬会・函館競馬場に所属する田中舘次郎厩舎に入門。翌年、「より大きい厩舎で騎手になった方がいい」という田中の配慮から、京都競馬場大久保亀治厩舎へ移った[2]。1943年4月に騎手見習いのままデビュー。5月29日、京都競馬場の障害競走において騎乗馬トーホクヒフミで初勝利を挙げた[2]

翌1944年より兵役に就き、船舶部隊を経て広島の無線通信部隊配属となる[2]。翌1945年8月6日、当時の駐屯地であった広島女子商業学校内でアメリカ軍による原子爆弾投下に遭遇。同校は爆心地から比治山を隔てた陰になっており、講堂内にいたことも幸いして重傷を免れた。一方で、放射線による影響からか以後疲れやすい体質になったという[2]

戦後、1947年より正式に騎手免許を取得し復帰したが、馬不足に加え、賞金が安かったこともあり苦しい生活が続いた[2]。1949年に小倉競馬場(のち阪神競馬場)の渋川久作厩舎へ移籍[2]。渋川厩舎では主戦騎手格として遇され、1951年にテツノハナで関西の3歳王者戦・阪神3歳ステークスを制し、重賞初勝利を挙げる[2]。以後タマツバキ記念(騎乗馬シゲタカ)、きさらぎ賞(同ライジングマサル)と計3つの重賞を制した[2]。騎手として通算276勝の成績を挙げ、1965年に引退[2]。同年、調教師として阪神競馬場に厩舎を開業する[2]

これといった伝手がなく管理馬は安馬ばかりであったが、1972年にワイエムチャイナで重賞(小倉記念)初勝利を挙げて以降は数々の管理馬が重賞戦線で活躍した[2]。1970年代から80年代にかけては、「タマモ」の冠名で知られた三木道夫所有馬の主戦厩舎として、阪神3歳ステークス優勝馬タマモアサヒ阪神牝馬特別に優勝したほか、桜花賞2着、エリザベス女王杯3着などの成績を残したタマモコトブキ、京阪杯優勝馬タマモリマンドといった馬を手がけた[2]。タマモリマンドの母・イコマエイカンも吉永の管理馬であり、タマモリマンドのほか小倉大賞典優勝馬グレイトファイター、桜花賞2着のクインリマンドといった産駒が吉永の管理下にあったが、活躍が増すに連れて産駒の価格が高騰し、第4仔からは「馬主に損をさせない」「安い馬で勝つ」という方針に至っていた吉永の手を離れることになった[2]。その第4仔・アグネスレディークラシック競走優駿牝馬(オークス)に優勝[2]、さらに同馬の血統からは孫世代まで三代連続でクラシック優勝馬が生まれている。

1979年には調教技術賞を受賞[2]。1981年には32勝を挙げて勝利度数ランキングで関西5位(全国6位)につけた[2]。1991年には自己最高の34勝を挙げ、翌1992年もグレード制導入(1984年)後、自身初のGI制覇となる阪神3歳牝馬ステークス(スエヒロジョウオー)を含む33勝を挙げた[2]

調教師生活の晩年に至るまで20勝前後の安定した成績を保っていたが[2]、1999年2月28日をもって定年により調教師を引退。通算成績は7497戦670勝[4]。最後の管理馬の1頭だったスマートボーイ伊藤圭三厩舎へ移ったのち重賞4勝を挙げた。同馬は伊藤の実家である[5]グランド牧場で売れ残っていた馬であり、アンタレスステークスで重賞初勝利を挙げたときには、伊藤から「これもみんな先生のおかげです」と謝辞を送られたという[2]

成績[編集]

※出典:『調教師の本VII』216-229頁。

騎手成績[編集]

  • 通算276勝(1954年以降、1206戦110勝)

重賞勝利騎乗馬[編集]

  • テツノハナ(1951年阪神3歳ステークス)
  • シゲタカ(1959年タマツバキ記念)
  • ライジングマサル(1962年きさらぎ賞)

調教師成績[編集]

出典:日本中央競馬会公式サイト・引退調教師名鑑「吉永猛」各ページ。

開催 勝利 出走 勝率 表彰 重賞勝利馬(優勝競走)
1965年 中央 5勝 81回 .062
1966年 中央 14勝 130回 .108
1967年 中央 21勝 193回 .109
1968年 中央 17勝 196回 .087
1969年 中央 4勝 104回 .038
1970年 中央 10勝 157回 .064
1971年 中央 18勝 172回 .105
1972年 中央 24勝 233回 .103 ワイエムチャイナ(小倉記念)
1973年 中央 22勝 198回 .111
1974年 中央 17勝 194回 .088 ラッキーオイチ(阪神牝馬特別)
1975年 中央 27勝 236回 .114 ハクサンホマレ(スポーツニッポン賞金杯
1976年 中央 18勝 207回 .087 グレイトファイター(小倉大賞典)
1977年 中央 16勝 221回 .072
1978年 中央 22勝 255回 .086 タマモアサヒ(阪神3歳ステークス)
1979年 中央 27勝 189回 .143 調教技術賞(関西) タマモリマンド(京阪杯)
1980年 中央 22勝 252回 .087 タマモコトブキ(阪神牝馬特別)
1981年 中央 32勝 241回 .133 ホクトツシマ(小倉3歳ステークス)
1982年 中央 17勝 243回 .070
1983年 中央 15勝 251回 .064
1984年 中央 18勝 205回 .088
1985年 中央 11勝 249回 .044
1986年 中央 18勝 191回 .094
1987年 中央 12勝 223回 .054
1988年 中央 17勝 231回 .074 トキノオリエント(中日新聞杯)
1989年 中央 24勝 233回 .103
1990年 中央 18勝 253回 .071
1991年 中央 34勝 258回 .132
1992年 中央 33勝 272回 .121 ワイドバトル(小倉大賞典)
スエヒロジョウオー阪神3歳牝馬ステークス
1993年 中央 22勝 258回 .085 セントミサイル(クリスタルカップ)
シルクムーンライト(北九州記念)
1994年 中央 19勝 259回 .073
1995年 中央 18勝 269回 .067
1996年 中央 22勝 249回 .088  
地方 0勝 3回 .000
22勝 252回 .087
1997年 中央 27勝 262回 .103  
地方
27勝 262回 .103
1998年 中央 25勝 285回 .088  
地方 0勝 3回 .000
25勝 288回 .087
1999年 中央 3勝 47回 .064  
地方 0勝 2回 .000
3勝 49回 .061

出典[編集]

  1. ^ 井上(1964)p.165
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 『調教師の本VII』pp.216-226
  3. ^ 芦谷友香『栗東厩舎探訪記(3)』pp.156-164
  4. ^ 『調教師の本VII』p.229
  5. ^ 角居勝彦『勝利の競馬、仕事の極意』p.118

参考文献[編集]

  • 中央競馬ピーアール・センター(編)『調教師の本VII』(中央競馬ピーアール・センター、2000年)
  • 井上康文『新版 調教師・騎手名鑑1964年版』(大日本競馬図書刊行会、1964年)